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天網恢恢

17条憲法
聖徳太子こと厩戸皇子が定めたとされる17条憲法。
日本最古にして、世界初の「憲法」とされる。
わが党は日本国憲法を破棄せんとする立場であり、尚且つ大日本帝国憲法回帰でもない事は周知の通りである。
大日本帝国憲法は、そもそもがホーエンツォレルン朝のドイツ帝国宰相ビスマルクが制定した憲法をモデルとし、更には時を遡ること同じくネーデルラント連合王国(現オランダ)から独立したベルギー憲法、それすら革命後のフランスといった近代西洋の法体系を模倣してるのである。
無論、近代西洋の真似事をしない限り、白人帝国主義全盛の時代、清朝・ムガール帝国をはじめとしたアジア諸国のように、植民地化することは間違いない情勢下のため必要に迫られての事出会ったことは言うまでも無い。
だが、この時わが国の神の概念に「GOD=ヤハウェ(エホバ)」が加わり、天皇は西洋的「Emperor」更には起源をローマ帝国にもつImperator「統帥権」の保有が不可欠となった。
ゆえに戦後憲法はこの「統帥権」の一切を剥奪し、「Emperor」の名は能えども実の無い、いわば「裸の皇様」状態に貶める事に成功した。
何よりも「Emperor」とは、東洋史観からすれば「王道の君主」ではなく「覇道の君主」であり、民を慈しむ君主ではなく、簒奪者を祖とする王朝の君主号であり、いずれは新たな覇王に簒奪される運命にあり、わが国の「主上」への尊号として果たして正しいのかという疑問を感じずにはいられない。
ゆえに、西洋近代キリスト教文明価値観からの脱却・超克を唱えるのである。

さて、そこで17条憲法であるが、それをそのまま移植するには問題が出てくる。
第二条の「篤く三宝を敬え」である。
三宝とは、ブッダ・ダルマ・サンガの仏法僧であり、法とは法律ではなく、仏の教え、サンガとは教団の僧侶となる。
この価値観のために、奈良時代に弓削道鏡なる不逞の輩を生み出し、平安時代後期から戦国時代にかけて「腐れ坊主の巣窟となった比叡山」を生み出し、挙句の果ていよいよ織田信長によって焼かれたのである。
明治初期の廃仏毀釈も然り、江戸時代から続く寺の坊主に与えた特権による腐敗が民衆の積年の怒りを買い、新政府のお墨付きを得たと感じた民衆が暴徒に転じたのである。
現代でいえば、今この瞬間にこれを採用したのであれば与党の一翼を担う政党はじめ、似たような集団が躍起となってこの2条を持ち出し、幅をきかしはじめることだろう。
故にこの条は「改憲」する必要がある。

そしてこの憲法は極めて原初的であるが故にその目的もはっきりしており、基本法としての性質というより、むしろ公務員服務の心得的性格が強い。
それゆえに、大化の改新前後から壬申の乱などの激動の中で早くも律令制の影に隠れ、国法としての性格が失われてしまった事は注意する必要がある。
改めて述べる。
17条憲法の2条だけは改憲しなくてはならない。
仏法の「因果応報」は国賊に天誅与える絶好の名分だが、それより上位に位置する「無常」は、「天壌無窮」とは真逆の意味であるためだ。
これが「個より全」に重きを置く考え方である。

令和3年 9/11

9条は客寄せパンダ
護憲派は現行憲法護持と改正阻止のために9条をことさらとりあげ、「平和憲法を壊すな」と主張する。
だが、護憲派と称する者のうち、果たしてどれぐらいの割合で、1条から103条まで通読したのだろうか?
まず「戦争はいけない」「戦争になれば死ぬ」これは戦後左翼の持つ「先の大戦は侵略して返討ち」史観によるもの。だが、この観点はそれなりの支持者を集める事に成功した。
さて、9条は客寄せパンダと述べたが、これはどういう意味か。
それは1条護持こそが彼らの真の目的だからである。
1条とはもちろん、天皇項。

第一条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。

ここの「国民の統合の象徴」「国民の総意」がポイントとなる。
つまり、逆説的に国民が分断すること。総意でなくなってしまうこと。
この2点が達成すれば、天皇は違憲となり、憲法下における正当性を喪失させることができる為である。

次に見落とされがちであるが、詔・勅の有効範囲という点。

いわゆる「終戦の詔勅」を以て最後の「みことのり」であるという尊皇派の主張であるが、実態はどうあれこの形式を以て、陛下の意志として発せられた最後のそれは、昭和21年のいわゆる「人間宣言」と、現憲法に関するGHQ草案に対する「帝国憲法改正案」である。

故に彼らは「日本国憲法」を護持し続けようとする。

また大日本帝国憲法回帰しようとも、新たな詔勅を出さない限り、この2つの詔勅は有効なままなのである。

ここに踏み込まない限り、護憲派との屁理屈合戦の勝機は無いのである。

ただ一つ、「日本国憲法」を無効化しない限り。
 

さて、民主主義とは多数決という認識が一般的だが、民主主義のもう一つの意味は、君主制ではなく共和制のことであり、大統領なり国家主席が国の代表となる政体のことであり、これこそまさに「左翼」の目指す方向そのものだからである。
故に彼らは憲法を護持しつつ、分断を促進するための些末な差異を「差別」とし、その基準を次から次へと発掘し喧伝しつづける。
そして、その運動は新たな利権と旨味を得てしまうがゆえに辞められなくなる。
だがその旨味こそが、今の政体と社会が混乱し不安定になれば霧散してしまう。
であるからこそ暴力革命を封印し、本来の目的である共和制への移行も進んでいないというのが現状であり、赤い貴族となった彼らは利権のために現状を維持しつづけ、なおかつ地道に芽を育てるという絶妙な一石二鳥ともみえるが、実態は綱渡りのジレンマに陥ってしまったのだ。
その赤い貴族の代表例が日共であり、日教組に代表されるような国の禄を食みながら、あのような真似をしでかし続けている保守化した左翼なのである。
人がそれぞれ特質が異なるのは当然のことであり、完全に同一な人などいないのである。
人に限らず、それは動物、菌やウイルスに至るまでそうであるといえよう。
それぞれの特性を活かし、ひとつの社会としてまとめあげることがファシズムの特徴である。
なぜ、ファシズムは悪とされるのか?
答えは明瞭だ。
彼らの利権を奪う事に繋がるからだ。

逆に尊皇を掲げている立場であれば、差別は左翼への利敵行為にも繋がることをここに明記しておきたい。だが、特権振りかざしたらその時点で奸賊である。
令和3年 9/17

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