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近代民主主義の正体

■東洋思想から見た近代民主主義
 これまで述べてきた通り、近代民主主義は、キリスト教の教義を根幹として生
まれた思想である。では、キリスト教のドグマ(教義)と全く無縁な国や人には、受け入れられるものなのだろうか。「民主主義は人類共通の価値である」などと言って礼賛する人も多くいるが、キリスト教徒であり、なおかつ白人種が言うならまだ許せるが、キリスト教徒でもなく白人種でもない日本人が言うのは、自分の無知をさらけ出すことにしかならないので、止めたほうがいい。
 なぜならキリスト教では、造物主が創った人間とは、キリスト教徒と白人種であり、非キリスト教徒と有色人種は人の言葉を話す動物とされているからである。
 動物には自由、平等、幸福追求の権利など存在しないのである。つまり、民主
主義とは西欧キリスト教圏でのみ通用する思想であって、それ以外では全く通用
しないものなのである。
 話は少々脇道にそれるが、明治初期の自由民権運動と、ここで問題にしている
西欧民主主義を一緒にすることは間違いである。明治初期の自由民権運動は、征
韓論に敗れて下野した人々が中心となっており、日本のナショナリズムを形成す
る過程で、藩閥政府に対して対外的に日本の国権を示すことを要求するために行
われたものである。
 その当時は、藩閥政府が行う政治と民意が大きくかけ離れており、近代国家と
しての日本を確立するためには、政治に民意を反映させなければならないという
考えが主流であった。
 この時代の政治状況については、また機会があったらお話ししたいと思う。話
を本題に戻そう。
 東洋思想からすると、近代民主主義を構成している平等主義という考え方に、
まず違和感を覚える。
「自ら省みてなおくんば、千万人とも、吾行かん」
 これは支那の孟子が言った言葉である。
「自分の心を振り返ってみて、自分が正しいのなら、たとえ相手が千万人であっても敢然と進んでこれに当たる」という意味である。さらに意訳すれば、五常(仁、義、礼、智、信)に照らし合わせて、自分が正しいと思えば、相手が千万人であっても、臆することなく進む。ということになろう。

 支那の儒教において、五常と呼ばれる徳性は、人間ならだれしも生まれながらに持っているものとする。この点では、人間は平等である。しかし、私利や私欲のため、その五常の働きを曲げてしまう、働かなくしてしまうことがある。
 無私なる孟子は五常が十全に働いているけれども、千万人の人は五常が働いていない。従って、千万人の意見は無視するべきものなのである。
 これを近代民主主義で考えてみると、神からつくられた人は平等であり、同じように原罪を背負っている。五常の働きなどは関係なく、その人たちの意見は、すべて平等に扱われなければならない。
 無視されるべきは千万人の意見ではなく、聖人と呼ばれる強大な政治指導
者のほうである、ということになる。

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