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天網恢恢

西洋・近代、そして基督教文明価値観
これに染まると現代の日本国政府は国家としての主権はおろか、「建国の資格を有してない」事になる。どういうことかというと、ざっと思いつく西洋国家、米・英・仏・独、古くは蘭・西・葡、彼らの現代の国の原型はいずれも、革命・あるいは植民地からの脱却に基づいている事にある。

西・葡はレコンキスタによるイスラム国家群からの奪還。
蘭は西からの独立。
仏は言わずと知れたフランス革命。
米は英国からの独立戦争。
独は普仏戦争の結果、領土と賠償金を得た結果の帝政と、ナチス興亡を経て。
露は言うまでもなく、ロシア革命とソ連崩壊。
東欧諸国はそのソ連からの独立。
アフリカ・南米、アジア諸国もまた然り、二次戦後の欧米各国からの独立。
かなり雑に述べたが、英がかろうじて、それらを経ていないが、クロムウェルによる国王チャールズ一世を処刑した後共和国化し、死後王政復古という手段を執っているため事情は多少異なる。
明治維新が西洋近代化を計るにあたり、イギリスを意識したのはこのような事情によるものだと言えるのである。
いわゆる徳川幕府からの「王政復古」という名分を得、脱亜入欧を目標に、西洋式憲法を制定し、富国強兵の下、琉球・台湾・半島の合併と日清・日露の勝利により、白人帝国主義観点からの帝国の資格を得たと言ってもよい。

つまり、いずれの国々も最盛期に対外戦争に勝利する以前に、自国内を統一するか、「王殺しor政体革命」をやってのけている事が前提にあるのである。
シナはどうかといえば、辛亥革命をきっかけとし、日中戦争・内戦を経て中共というながれであるが、重要なファクターである「王殺し」の伝統はそれこそ数千年前から夏桀殷紂に始まり以後伝統として、「革命」の語源として根付いており、半島二国は「日帝から独立した」という大義名分のみに価値を見いだしているのである。

逆説的に、わが国がこの西洋・近代の根底にある失地回復・独立・王殺しという三大通過儀礼の要素を満たせない限り、「第二次大戦に敗れた国連条項云々」「黄色人種だから」というのは、現代の独、中共、北鮮見ればわかるように、所詮は言い訳にすぎず、真の西洋・近代文明圏の一等国に属したとは言えないのである。

戦後一等国っぽく見えたのは、いわば高度経済成長によって米国に次ぐ経済大国になったからであり、色恋稼業の「バカはおだてればカネを使う」「X万払えばやらせてくれるかもしれない」という図式そのもので、それが1990年クエート侵攻の湾岸戦争によって如実に露呈したのである。

更に現代においてこの土俵で一等国になるための条件は、明治期よりも条件が変化しており、西洋憲法の実施だけでなく。
1・民主主義の実施、または軍事力
2・共産主義または資本主義
3・失地奪還
4・外国軍を国土から駆逐(物理的独立)、経済・政治的影響力の排除(間接的独立)

この4つを全て満たす必要がでてくるのである。
そしてこれらの前提として不文律となる
・5「王殺し=革命」に伴う政府の転覆経験の有無。
もちろん、幕府を米国傀儡政府とする事は可能であるが、そのためには・4を達成する必要があり、・1が不可欠となる。
さて、これらを現代の条件において今すぐ可能か?といえば、それは不可能であるといわざるを得ない。
では、いつか可能なのか?
と問われれば、このままではいつまでたっても出来ないと言えよう。

だとするならば、敢えてその土俵に乗る必要はないのであり、脱亜入欧・文明開化という明治維新ドクトリンはもはや通用するどころか、逆に彼らに服属することを意味するものとなってしまっている。
なればこそ西洋近代文明国になるためのルールそのものを破壊、或いは無視しなくてはならないのである。


では、この1-5までを表層的に、解決する方法がある事に気づいたでろあろう。
つまり

「北方領土の問題は日米安保破棄すれば応じてもよいというソ連時代からの方針」

「米軍でてけ!」

「共産主義革命」

「天皇制廃止」
「民主主義を守れ!」と。
これらを全て主張している存在が以前から存在していることを!

 

民主主義とは一般的に多数決ととらえられるが、もう一つの意味は、世襲君主によらない共和制元首を国家の代表とする体制のことをも示す言葉である。

そして、これらを全て達した直後に、中共の影響が無視できなくなるという事を意図的に触れようとしないか、露骨に表明している亡国・売国勢力を!

この複雑に絡み合う左右の事情と情勢の糸口になってくるのが、基教文明からの超克になってくる。
これらとは趣が異なるオスマン帝国を軸とする中東諸国となると、別の話題になるため今回は省略したいが、あの神も信じてる者が多少違うだけで元々同じ神であり、宗教戦争とは名ばかりの俗世利害が原因の内部紛争という図式にしかすぎず、なぜその昔エジプトのファラオ(ラムセス2世と推定される)はモーゼを捕らえようと、殺そうとしたか?という古代人の直感は無視はできない。
このアブラハムを祖としている一神教二元論のドグマを祓う闘争が求められてくるのである。
彼らの祖が長い闘争の果てに当時の当地の旧文明を駆逐し、世界に伝搬していったはまさに文明闘争に勝った証でもあり、その彼らが旧文明となった今、新文明によって駆逐されるのは自明の理なのである。


 

結論からいえば、国際的には共産主義だろうと、イスラムだろうと、反基督の悪魔崇拝だろうと、国内における戦後保守、戦後左翼・リベラルはどれもが、近代・西洋・基督教文明の影響下でその永続化のために踊らされている白人帝国主義の走狗であり、この根底にある価値観の打倒、超克が新文明闘争へと直結し、そのために国内においてまず第四の維新が必要不可欠なのである。
わが国の神話は「神」が「神」をぶっ殺す事ができるのだ。

この前提を放棄した共産主義者にはできない事を、われらならできるのである。


令和3年 9/24

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