超国家主義『民族の意志』同盟

平成一七年度年頭に当たって
本年は日清戦勝110周年、日露戦勝100周年!
本来ならば民族にとって何にも勝る栄光の祭典が盛大に開催されるは当然!
ところが敗戦国史観に呪縛された戦後デモクラシー信奉者どもは戦後60周年の十字架の前に額ずき、わが国英霊を冒涜、鬼畜外敵に対し永遠の下僕たるを高らかに宣誓することであろう。
戦後一貫してわが国は、国家存立の最低要件たる国防を外国に委ねてこれを放擲してきた。
国防の去勢とは単に戦争能力の欠落した国家を意味するだけでなく、国家の生命力自体をも去勢されていたことを断じて忘れてはならない!
外敵から独自で身を守らんとする意志も能力もない国家は、内外の重大事変に対して全く機能を果たすことが出来ないは至極当然の理である。
即ち、近年当たり前となっている不良外国人による度重なる犯罪、支那原潜の例を出すまでもなく外敵による領海侵犯にも指をくわえるだけの張りぼて防衛、更には古来から地震台風と共に歩んできたわが国において天変地異に対する舐めきった対応等々。
これらの事前予期事後対処のどれをとっても、国家国民を何が何でも守護せんとする意志も意欲も全く見られない。
国家は外敵によって滅亡するのではなく、内部崩壊によって自滅するという諺の通り、いまや国家と称する戦後日本は外国にこず回されるままサンドバッグ状態でその命脈を絶とうとしているのだ。
諸君!
嘗て、蛤御門の変で惨敗を喫した後、幕府に恭順を示す椋梨藤太によって藩内維新派を殺戮しまくった俗論党長州藩が、その後何故、一機逆転!
維新回天の主役となり得たか!
また、歴史上、支那やロシアの度重なる抑圧を受けてきた東亜において、何ゆえ朝鮮が悲劇を見、わが日本が栄光を浴びることとなったのか!
まさに、外敵勢力に屈服する者は刹那的な和平と安寧を得る代わりに、とてつもなく大きな奴隷的鉄鎖の代償を被る事となるのだ!
それに対し、決して外敵との不利な妥協を許さぬ強靭な意志ある者は、一時の破滅的危機に直面するも必ずこれを撃破し得る英雄によって国難を超克する天命を帯びるのだ!
戦後日本は、目先の平和安寧にうつつを抜かし米国の核の傘の下で反核を叫び、支那朝鮮による内政干渉には土下座と札束外交で茶を濁してきたのだ。
これで健全な国家運営や国益外交が出来ると思ってきたほうが笑止千万である!
強盗に媚び諂い頭下げる馬鹿どもは、再び強盗に入ってくださいと懇願しているようなものに他ならない!
舐められきった祖国は、永田町に巣くう恥知らぬ亡国どもの私腹追求の生贄となっているのだ!
もはや許してはおかぬ!
のうのうと日米同盟をわが国外交政策の基軸とし、ブッシュの私憤に手を貸し人・物・カネを投入させてきたアメリカの下僕・小泉は、145年前にアメリカの前に屈し奴隷的条約を締結させられ憂国志士の怒りに火をつけた井伊直弼が桜田門外でどのような姿と化したかを、しっかりと確認するが良いであろう。
怒れる青年志士諸君!
偉大な政治の年が到来した!
昨年来の天変地異はまさに天が怒っている証左に他ならないのだ!
天の怒りに応えるは憂国志士の使命たるを自覚し偉大な祖国再建に決起すべし!
65回目の終戦日における復讐の誓い
平成22年8月15日
戦後日本の究極的売国宰相・菅直人を血祭りに上げよ
1・懺悔が祖国を自滅させてきた
また、暑い夏の8月15日が巡ってきた。
65回目の大東亜戦争終戦の日を迎え、まずもってわれわれは大戦に散華された250万英霊に対し哀悼の念を抱くと共に心から感謝を申し上げるものである。
ところが、所謂「東京裁判史観」に呪縛された戦後わが国の歴代政権およびマスコミは、一貫してこの日を「懺悔の日」と位置づけ、世界に対し謝罪を繰り返している。
これら売国奴は、これに先立つ8月6日の広島、九日の長崎原爆投下に対しても、被害者としての惨状を訴えることに終始するだけで、空前絶後の大量破壊兵器を使用した張本人に対する糾弾や謝罪要求を一切行ってきた形跡はない。
まさに本末転倒とはこのことではないか!
広島原爆ドームに記されている「二度と過ちは致しません」の表記に代表される、あたかも「すべての戦争の原因と責任はわが国にある」とする自虐的世迷言の延長線上に、現今日本社会の混迷と腐敗が位置していることを明確に認識しなければならない!
英霊を冒涜、国史を全否定して、占領軍にひれ伏し走狗となってきた裏切り者が、65年間、わが国の為政者として君臨してきたこと自体に、大きな間違いがあるのである!
当時のソ連・支那共産党の傀儡としてわが国に侵食した赤色勢力の末裔が、遂に現民主党赤色政権の中枢に盤きょしていることは、まさに祖国の末期的症状を露呈しているといっても過言ではない!
この左翼勢力を即時に粉砕しなければならないことは、当然の理であるが、しかしこの大鉈は、この左翼と腐敗社会を支えてきたもう一方の国賊の頭上にも振り下ろさねばならない!
すなわち、大東亜戦争の「自尊自衛」「アジア解放」の意義を唾棄するばかりか、昭和二十一年六月の国会において、質問した時の野坂参三・共産党議長さえもが驚いた「正当防衛権さえ否定」する答弁を吐き、そして昭和二十七年日米安保条約締結により祖国をアメリカ軍政下に差し出した戦後最大の売国奴・吉田茂を断じて許す訳にはいかないのである!
戦前に、その対英米宥和主義により軍部から睨まれた吉田茂は、戦後、GHQから鳩山一郎氏らが公職追放となった隙をついてまんまと政権の座をくすねることに成功したに過ぎぬ。
米国に魂を売り渡すのと引き換えに保身を図る吉田の「対米追従・国防軽視・経済偏重」の所謂吉田ドクトリンが、「保守本流」の源流としてまかり通るナンセンス!
これらを鑑みれば、その出発点からして既に、「ボタンを掛け違えている」のである!
もはや、この恒久的敗戦国家意識を維持している限り、わが国が健全国家として成り立つことができないことをはっきりと認識しなくてはならない!
さて、この革新・保守の傀儡分子を醸成させ、互いに「対立」を煽る事=すなわち「国内の冷戦」構造によって、米ソ双方の仇敵である日本民族の精神・自覚・矜持をことごとく抹殺してきた。
代わりに、この売国奴傀儡政権が維持されるがために、宗主国アメリカは、植民地日本に対して根拠の無い虚妄の経済繁栄と物質的快楽を提供したのである。
折りしも、西暦1950年に勃発した朝鮮動乱によって、軍需景気に煽られた日本は、米軍の下請け工場と化し、従来からの自給経済体制を放擲し、豊葦原の瑞穂の国の豊饒の大地はズタズタにされたのである。
2・個人主義が祖国の歴史を歪曲する
更にこの敗戦国価値観を正当化させるためにばら撒かれたのが、戦後デモクラシーという梅毒である。
「戦前=軍国主義=侵略戦争、戦後=自由主義=平和」の図式がものの見事に描かれ、洗脳されていった。わが国伝来の「家父長制度、長幼の序、和」といった責任体制・役割分担を慣習化してきた共同体社会は、これは侵略戦争に繋がる「全体主義」として否定され、老若男女はそのものの長短所や特徴も一切無視され、一種の共産主義的画一化によって「個人主義」が押し付けられた。
特に、あらゆる暴力が否定されている偽善社会においては、弱者が強者を凌駕する事態が常識となっている。
もはやその社会には、強者が弱者を労(いた)わる価値観が薄れ、互いに醜い権利の主張合戦が繰り広げられるだけで、あちこちで多くの禍根を残し、惨劇が噴出している。
この国家社会を省みない個人至上主義の成れの果てこそ、上は、永田町の党利党略・私利私欲から、末端では「親の子殺し、子の親殺し」「隣人の生死をわれ関せず」式の犬畜生にも劣る惨劇が繰り広げられているおぞましい腐敗社会の出現に他ならない!
この歪曲化した個人主義こそ、己自身と祖国の歴史を分離してきた元凶である。
このような結果、次のような非国民の戯言がまかり通るのである。
すなわち、「大東亜戦争は日本が仕掛けた侵略戦争?」「広島長崎原爆投下は、日本がさっさと降伏しなかったせい?」「日韓併合は韓国朝鮮人を奴隷化した侵略的植民地化である?」
まさに、このようなデマゴーグがまことしやかに流布されてきた戦後六十五年間。
わが国の近代史はすべて「侵略戦争へ繋がる軍国主義の道」であるといって憚らない教育が強要され、挙句は「外国によって屈服され、いまだに軍事支配されている祖国こそ平和」であると嘯いている社会が健全であろうはずがないではないか!
自国を自国民が守ることを放棄し、自国のルールさえ自国民の意思なき社会に規律も発展もあるはずも無い。
「自由・民主・平和」のデマゴーグに踊らされ続けた結果、実態は手足を?
もがれた「非自由・非民主・非平和」の青色吐息の死に体日本が横たわっているではないか!
もはや自主独立を忘れた集団は、国家とは名ばかりの植民地に他ならない!
現今社会を大東亜聖戦の意義を再認識し、いまだに「自存自衛」「アジアの解放」という聖戦目的を達成できていないことへの深い反省、そして継戦を断念するかのごとき国賊行為に狂奔してきた65年間売国政権・マスコミを血祭りに上げなくてはならない!
3・韓国に謝罪する必要なし!
日韓併合 百年の首相懇話に示された首相・菅直人の稚拙なまでの短絡的歴史観の中に、間違うことなき戦後デモクラシーの実態が余すことなく露呈されているのではないか!
ボンクラ菅直人は、「植民地支配によって国と文化は奪われ、民族の誇りを深く傷つけられた」として「多大の損害と苦痛」に対する「痛切な反省と心からのお詫びの気持ち」を表明した。
この中には、当時の歴史環境は一切等閑に付され、反日教育の典型たる朝鮮人の立場を代弁した売国奴そのものに他ならない!
反日教育が国内外で蔓延した唯一無二の理由は、わが国が敗戦からいまだに立ち直っていない弱体国家であることに他ならない。
弱体化した相手には容赦しないのが、半島人や支那人の得意とする戦法であることは、過去の歴史を紐解けば一目瞭然であろう。
しかるに、謝罪を繰り返すことは、日韓友好に有益であるはずは断じてなく、逆にわが国の劣等化による朝鮮人の間違った優越感を増長させるだけで、日韓対立を煽るに過ぎぬものとなるのだ。
真の日韓友好に不可欠は、偉大な日本の再興以外にはないことを歴史からはっきりと認識しなくてはならない!
白人帝国主義打倒に燃える東亜の光輝・日本の存在こそ、意図的にでっちあげられてきた反日史観を微塵に粉砕することができるのである!
更には、謝罪に次ぐ謝罪を嫌と言うほど繰り返し続けてきた戦後六十五年の実態こそ、無為無策と保身に狂奔する傀儡政権の無能の証にほかならない!
故に、わが国は自覚と自尊そして独立心を去勢され、外国勢力の心身にわたる侵略によって死滅の道にひた走っているのである。
いまこそ、大東亜戦争継戦の意義を高らかに謳い、白人帝国主義者とその手先となってきた売国奴に対する復讐を貫徹しなくてはならない!
戦後の代名詞である「謝罪・懺悔」を即刻駆逐し、いまこそ「自尊・復讐」の下、自主独立精神を発揚し、新たな「戦前」としての覚悟をもたねばならない!
時代は、まさに祖国日本の生死を賭した大転換点に立っているといわねばならない!
いまこそ、白人帝国主義打倒のわが国の世界史的使命を再認識し、国内にはびこる傀儡分子=戦後デモクラシー信奉者の息の根を止めることが急務となるのだ!
戦後七十年における森垣秀介談話
平成27年7月1日
大東亜聖戦は、いまだ終わらず
1・終戦は懺悔でなく復讐の日である。
70回目の大東亜戦争終戦の日を迎え、まずもってわれわれは大戦に散華された250万英霊に対し哀悼の念を抱くと共に心から感謝を申し上げるものであります。
しかしながら残念なことに、いまだに所謂「東京裁判史観」に呪縛された戦後わが国の歴代政権およびマスコミは、一貫してこの日を「懺悔の日」と位置づけ、世界に対し謝罪を繰り返していること実に嘆かわしいと言わざるを得ません。
これら売国奴は、これに先立つ3月10日の帝都大空襲(大虐殺)、8月6日の広島、九日の長崎原爆投下に対しても、被害者としての惨状を訴えることに終始するのみならず、その責任をあろうことか当時のわが国政府に擦り付けることに狂奔している。それこそ、空前絶後の大量破壊兵器を使用し、戦勝国面してふんぞり返る犯罪者の大罪を隠蔽する利敵・裏切り行為にほかならない。
「すべての戦争の原因と責任はわが国にある」とする理不尽な十字架を背負わされた姿こそ、現今日本社会の腐敗混迷の要因であることを明確に認識せねばならない!
まさに、英霊を冒涜、国史を全否定して、占領軍にひれ伏し走狗となってきた裏切り者が、70年間為政者として君臨してきたこと自体、わが国の悲劇と言わざるを得ない!
いま喧しく「戦争反対!」やら「集団的自衛権」など無意味な空理空論が世間を賑わしているが、大東亜戦争の「自尊自衛」「アジア解放」の意義を唾棄するばかりか、昭和二一年6月の国会において、質問した時の野坂参三・共産党議長さえもが驚いた「正当防衛権さえ否定」する答弁を吐き、そして昭和二七年日米安保条約締結により祖国をアメリカ軍政下に差し出した戦後最大の売国奴こそ、戦後保守本流と仰がれた吉田茂であることを認識せねばならない。「対米追従・国防軽視・経済偏重」を基本とする吉田ドクトリンこそが、実はわが国から自主も独立も奪った最大の国賊的策動であったことを明確に理解し、即刻これを唾棄せねばならない。
この戦後のボタンの掛け間違いを正し、わが国を呪縛している敗戦国史観=贖罪意識を払拭し、「国史否定・国体破壊・国益放棄」に狂奔する内外の反日勢力に対する復讐を断固実施せねばならないのである。
いまこそ、わが国の唯一の生き残る道であることを自覚する秋(とき)である。
2・村山談話について
さて、安倍晋三首相が、今年戦後70年の節目に、談話を発信するらしい。そもそも戦後50年の節目に当時首相・村山富一が寝ぼけた談話を世間に発し、内外の反日勢力を欣喜雀躍させた責任は極めて重大である。
売国社会党に擦り寄り数合わせの連立を組んだ自民党も、結局は戦後デモクラシーという売国政策で同根であったことが明確に証明された訳である。
戦後レジームの脱却を謳う安倍首相が、どのように村山売国談話を破棄駆逐するかを期待する向きもあったようだが、畢竟、戦後デモクラシーを信奉する売国奴には所詮「村山談話を基本的に継承する」ことに陥らざるを得ないことは明確であろう。
故に、この安倍首相に代わり、ここに村山売国談話の理不尽さを明確に否定唾棄せねばならない。
第一に、「平和で豊かな日本となった今日、私たちはややもすればこの平和の尊さ、有り難さを忘れがちになります」との文言自体、平和を構築する為の血の滲むような努力を忘れていることを如実に白状しているではないか。
「憲法九条」をまるで「国際赤十字」と履き違えている無邪気性、念仏唱えてさえいれば平和維持できるとする呪術師のごとく幻想こそ、自らの生命さえ差し出しても平和を維持構築するという努力を放擲しているといっても過言ではないのである。
第二に、平和を「私たちは過去のあやまちを二度と繰り返すことのないよう、戦争の悲惨さを若い世代に語り伝えていかなければなりません」の文言に至っては、まさに他人事的な「語り部」で一人悦に入っているといっても過言ではない。このような極楽トンボ的態度こそ、隙在らば侵略せんとする外国勢力の濁流を防ぐ気概と実力があるとは到底思えない!
「伝えていくだけでは何の予防にもならないことは、地震の悲惨さを伝えるだけで、あとは他人が考えてくれとする無責任極まりない放言に過ぎないと云わねばならない。
そして第三に、「わが国は、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。
・・ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします」とは、まさに戦勝国史観に基づく典型的な利敵行為に他ならず、実に党利党略・私利私欲の身勝手な裏切り言質に対し、断じて許すわけにはいかないのである。
村山の変節振りは、政権の椅子に座るや否や、それまでの党是を翻し「日米安保容認」し、挙句は野党に下ったとたんに再び反対を唱えることでも明確であるではないか。
村山富一・河野洋平の売国奴がおこなった利敵行為は、まさに国家反逆罪で厳罰に処すべき蛮行であることは言を待たず、引退間近とはいえ、きっちりとその責任を取らせねばなるまい。
3・自主独立国家建設と世界平和
戦後世界は、いまだに戦勝国・敗戦国の明確な色分けによって構築されている。
第二次世界大戦時、枢軸国と対峙した連合国(UNITED NATIONS)がそのまま世界の支配機構として存在し続けていること自体、戦勝国による戦勝国の為の世界であることを如実に物語っている。
逆から見れば、戦後世界は、日独の犠牲の上に立脚しているのである。
このような理不尽な差別は核兵器・経済・社会など多岐に亘っており、ゆえに、わが国自身の生存さえ自分自身で決定できない嘆かわしい惨状に陥っている。
その典型のひとつが経済で見られる。
すなわち、わが国の経済システムは、朝鮮動乱当初から他国へ製品を輸出する所謂プランテーション経済と化し、自国民の生活必需品・食糧は自給できぬ不条理に陥っている。 虚構の「経済大国」は実態は、自主独立を完全に阻害した植民地経営に他ならないことを厳粛に見極め、早急にシステム改革をせねばならない。
あまつさえ国防・司法・経済・教育すべてにわたり、戦勝国の内政干渉を唯々諾々と許す売国奴が横行する祖国に、もはや明日はないと言わねばならぬ。
故に、速やかに、自主独立を損なうあらゆる素因を排除駆逐すべく、ポツダム議会屋・マスコミに代表される戦後デモクラシー信奉者を打倒しなければならない。
4・われわれは大東亜戦争の意義を正しく伝承せねばならない!
また、歴史認識を踏まえて論議するのであれば、大東亜戦争は日米が「肩がぶつかったから」戦争したのではないことを理解せねばならない。
戦争は衝動的に後先考えずに行えるものでは断じてないのであり、故になぜ「アジアの地で欧米白人と戦ったのか?」「何ゆえ圧倒的に国力で差がある大国と戦ったのか?」という答えを「当時の軍事指導者の無能によるもの」というまったく破廉恥極まりない答えで納得してしまう馬鹿評論家があまりにも多い!
アメリカはわが国が日露戦争でロシア帝国に勝利した瞬間、支那侵略の障害として日本を位置付けた!
ゆえに第一次対日侵略「オレンジ」計画を発動したではないか!先述した如く日清日露・第一次世界大戦の戦勝国として日の出の勢いの東洋最強の軍事大国日本の存在こそ、白人アングロサクソンの最大の敵であり、さらには白人コンプレックスを払拭した偉大日本こそ有色人種にとって英雄と仰がれる存在となったのだ!
このような見地から、もはや大東亜戦争は西暦1905年日露戦勝直後、アメリカによってその幕は切って落とされたといっても過言ではないのだ。
事実上の戦争行為=日本弱体化政策は、矢継ぎ早にアメリカ側から攻勢をかけてきていることをはっきりと認識せねばならない!
即ち、外からは西暦1921年ワシントン会議四国協定で日英同盟廃棄=日本の孤立化、同22年ワシントン軍縮会議、同30年ロンドン軍縮会議で日本海軍の大幅弱体化、内からは大正デモクラシー梅毒による退廃思想の蔓延、「憲政の常道」の幻想による政党間スキャンダル合戦=内政停滞、共産主義思想の黙認、国際協調による金融破綻・経済恐慌の招来により、わが国は内外に亙って強力な国家基盤を相次いで消失してきた。
これにより白人が最も恐れた「武勇国家」日本はその戦争遂行能力を著しく貶められたのであった!
このように、英米の東亜への侵略策動は、自らの軍事力・軍需生産力を向上させる準備と、ターゲットである日本の軍事力削減と戦闘意欲の減退をもたらすことに成功したのであった!
追い詰められたわが国が白人英米の策動に気づいたのはまさに昭和七年の五・一五事件以降であったのであり、腐敗堕落した政党政治に取って代わり国民の強い支持のもとに軍部が登場せざるを得なかったことは当時の朝日新聞・東京日日新聞の文面からも十分読み取れるのである。
要点を絞ろう。
かくの如き戦争は、軍事的側面は最後の結論部分に過ぎず、殆どの戦争部分は非軍事的側面からの工作策動にあることをしっかりと認識せねばならない!
大東亜戦争はその意味から、用意周到に戦争準備を着々と進めた英米の思惑通りに昭和一六年12月8日を迎えることとなった。英米における最大の誤算は、凄まじい日本人の強さであった!
その軍事的力量、精神的統率、高度な頭脳等々に驚愕し、その圧倒的優秀性は英米にとっては絶対に許すことができない要素に映ったのだ。
故に、恐怖心から徹底した破壊、去勢が行われた!
諸君!
戦後わが国に行われてきた理不尽な奴隷化政策、弱体化政策の背景にはこのような英米白人の日本人に対する畏怖と羨望があることをしっかりと認識せねばならない!
白人帝国主義の世界征服にとって偉大日本の存在は認められないのだ!
故にわが国の「自存自衛」と白人帝国主義とはまったく相容れぬ世界観にほかならない!わが国が真の独立主権国家として確立し、世界に向けて共存共栄世界秩序を謳うことは、白人優越主義を打倒粉砕することを意味するからである!
醜い白人帝国主義者の軍門の下り、永久の敗戦国家、永久の奴隷状態で卑劣にも満足することは、もはや偉大日本の世界史的使命を放棄した裏切り者であり、このような生き恥をさらしながら一体どうして英霊父祖に顔向けができようか?
断じてできるはずがないではないか!
70年目の終戦の日を迎え、いまだ達成されていない「自存自衛」「アジア解放」の大東亜戦争の継戦を強烈に意識し、日本はいかなる外国勢力の風下に立つを潔しとしない!という崇高な理念と使命をいま改めて強烈に自覚せねばならないときである!
ゆえに、散華された英霊父祖の偉業を感謝伝承し、いまだ達成されぬ「自存自衛」「アジア解放」の大使命を貫徹すべく、すみやかに核武装再軍備の強力国防国家を建設し、七十年間の敗戦状態払拭し、新たな大東亜聖戦に断固勝利へ国家国民を導かねばならない!
ゆえに、談話の結論は次の三点に凝縮されるのである。
一、五百年白人帝国主義を打倒せよ!
一、対日弱体化政策=戦後デモクラシーを粉砕せよ!
一、「近代・西洋・キリスト教」白人優越文明を駆逐し人類共栄の新文明を建設せよ!
大東亜戦争開戦七十五周年。その世界史的大偉業を再認識せよ!
1・なぜ戦後、12月8日を抹殺してきたのか
戦後が始まった昭和二十年8月15日は、一億屈辱の日と肝に銘じ臥薪嘗胆再決起をはかるに忘れてはならぬ日であります。
しかしそれ以上に、断じて忘れてならないのが、昭和十六年12月8日に他なりません!
この日こそ、東洋の光輝・有色人種の英雄日本が、アジア・アフリカ・南米を五百年間植民地奴隷化してきた白人帝国主義を打倒すべく、英米アングロサクソンに対して命懸けで決起した日であり、これこそ近代世界史に燦然と輝く偉大な記念日であると認識せねばなりません。
ところが、残念ながら終戦を境に、敗戦日本は戦勝国による対日奴隷化政策によって、伝統・文化・歴史をズタズタに改竄・抹殺されたばかりか、栄光の歴史や義挙を讃える行為すらタブー視する「魔女狩り」が行われてきたのです。
民族の自尊心・矜持を表立って歓声することすら出来ない政策は、民族の魂の去勢、即ち民族浄化=ジェノサイドに他なりません!
2・大東亜開戦なくんば、日本民族は生き残っていなかった!
白人帝国主義の世界征服の野望を、身を挺して戦い抜いた大東亜戦争は、わが国にとって絶対に譲ることの出来ない生存戦争であったのです。
尤も対英米傀儡勢力の手によって戦わずに屈服する姑息な手段を用いていたならば、わが国は支那よろしく白人列強の分割支配に今なお組み伏されていたでしょう。
その理由は、全動植物の生存摂理には「弱肉強食の原理」が働いているからです。
即ち民族には二種類あり、自存を断固護りぬく力を持った栄光の支配民族か、さもなくんば自存すら放擲し他国に身委ねる奴隷民族の道を甘受するしかないからであります。
「自存自衛」「アジア解放」の名の下、大日本帝国はまさに、世界へ向かって栄光の民族魂を知らしめたのです!
戦後の無責任な評論家はもっともらしくのたまう。
「大国アメリカに戦争をしかけたこと自体無謀であったし、間違いであった・・」
「日清日露戦勝に酔いしれ、神州不滅の精神で奢った結果、自らの力を過信したんだ・・」
云々と。笑止千万!
腰抜け評論家には言わせておけばよいのだ!
偉大民族の歴史には、どうしても逃げられない、避けて後世に禍根を残してならない決断と実行すべき時期があるのです!
「彼我の戦力を鑑みて」など冷静分析するような次元をはるかに超えた「栄光の過去と未来の掛け橋として」武者震いと感涙の中、感激を以て命を賭した大使命を全うせねばならない一世一代の時機があるのです!
大東亜戦争とは、このように、天命民族の宿命を担った大反撃戦であったということを改めて認識しなければなりません。
更に言うなら、その使命を歴史から賦与された契機が、他ならず西暦1905年日露戦争の歴史的勝利であったのです。
白人列強打倒の一人者としての世界中に認められた日本が、スラブを始末した36年後に、今度は大物アングロサクソンに対する自存・解放戦争を展開したのは、日本および有色人種の生き残りを賭けた当然の帰結であると認識せねばなりません。
まさに大東亜戦争せずんば、日本はカルタゴやポーランドの如く、歴史から抹殺されていたことをはっきりと歴史から学ばねばなりません!