超国家主義『民族の意志』同盟
決断こそ、生きた政治!
1・決断できぬ植民地根性
現在の永田町は決められない政治と云われ続けている。
参議選の焦点の一つに「衆参ねじれ」があります。
果たして衆参ねじれが解消したところで本当に「決められる」政治となるのか?
否。そもそも日米安保条約=アメリカ軍政下に置かれた植民地状態を信奉している自助努力なき傀儡分子どもに、わが国の生死に拘る国家的重大事を決断できる意志も意欲もあるはずがありません。
もっとも、対外追従の売国奴に決断する資格自体存在しないことを看破せねばなりません。
その表れとして、自虐史観に毒され外国におもねってきた戦後歴代政権は、領土、主権に関わる大問題が発生すると途端に腰砕けとなり、問題回避ないし屈服することに汲々としてきたわけです。
正面から国益を死守せんとする覇気も意欲もない臆病風が、果たして敵をして益々増長させる結果となり、余計わが国の立場を窮地に陥れてきたのです。
北方領土(全千島・南樺太)、竹島、尖閣などの不法占領や領海侵犯は今に始まったことでな断じてなく、敵の跋扈を見て見ぬ振りをしてきた臆病者の民族に対する裏切り行為のなせる業にほかなりません。
姑息な私利私欲に拘泥する小者が、自身の生命まで危険にさらすことになりかねない大勇断を下す筈もなく、たとえ同胞が拉致され殺されようとも祖国が侵され強奪されても、ただオロオロするだけで一人頬かむりをすることがあたかも「平和外交」であるとした臆病者が権力者に位置していた悲劇を嘆く他なかったのです。
2・不決断を賛美するデモクラシー
国家的決断能力を欠損している連中が、では国会内でいったい何を「決断」するというのであろうか!
要は国家主権すら発動できない植民地内で繰り広げられる党利党略・私利私欲の我がままを指すに過ぎないのです。
決断できぬもう一つの大事由は、現在のデモクラシーの呪縛にあります。
デモクラシーの基盤たる多数決原理は、「多数派にこそ常に正義があり、少数派は抹殺されても文句は云えぬ」というおぞましい基本方程式に立脚していることを忘れてはなりません。
そもそも決断するとは、下した結果に対する責任が必然付随するはずです。
ところが群に紛れた無責任の多数者によって付和雷同的に発生した決定事項には、責任の希釈化と責任者の不明確がいつも大きな問題となってきた事実を忘れてはなりません。
現在の戦後わが国に蔓延する民主主義政治とは一体何であるか!
後ろ盾が居ないと一人では何も出来ぬ臆病者が、ともかく数をかき集め徒党を組むことを競う政治活動に他なりません。
数年に一度ある選挙の洗礼に首尾よく通過できるように、いかに自分は皆の利益の代弁者であるかを力説し利害を求めて来た者を「支援者」として集めたり、強力な資金・人員を要する選挙互助会に入党するのである。
このような涙ぐましいペテン策動を最大の政治活動と位置づけていること自体、既に自己決断の限界と不決断=大衆意見への追従に陥っているのです。
政治屋からみれば後援会、政党、派閥などは選挙に勝利する為の唯一無二の基盤であり、それがために後援会、政党、派閥の意向を聞かなければ決断できないという情けない者で溢れかえっているわけです。
(尤も、同一主義、同一思想で構成されているはずの政党は党首の決断だけで十分だが)
即ち、現今デモクラシー政治の最大の欠点は「大衆への迎合と追従」にあり、如何に大衆から認めてもらうかと言った「人気取り活動」がその根源にあります。
それに対し、不撓不屈の精神をもった指導者の下で断固決断し決然実行する決断政治こそ、危機迫る現在大衆を領導する最大にして唯一の体制に他ならないと確信するものです。
決断にはその是非や賛否あるは当然であり、一つの決断が次の決断を誘発していくスピードこそ、決断政治の身上にほかなりません。
アメリカの指示に従う惰眠政治に訣別し、いまこそわが国の「国益・国史・国體」に基づく決断し主張できる覚醒された政治を追求しなければならないのです。
(平成25年7月1日)