超国家主義『民族の意志』同盟
真の国難は始まっている!
~平和の呪縛!座して死を待つわが国
1・腐敗の土台は変わっていない
東日本大震災直後、わが国民の意識は変化ボランティアなどで励んでいる国民の方々などのご尽力には頭が下がる思いです。しかし時間の経過とともに意識が薄れてくるのはいたし方のないことだと思います。
本来なら、未曾有の大震災や原発放射能漏事故によって国民の意識が大変化してもおかしくはないが、実際のところ、当事者以外の国民の思考回路は、いまだに「平和の国の一時的な悲劇」として片付けてしまっているのが事実でしょう。
換言すれば「どんなに悲劇が来ようが、いまだにわが国は平和なんだ」という祈りにも似た空言が乱舞しています。
個々人にも個々人なりの生活苦もあれば事情もあるのは事実です。
これは古今東西の歴史を鑑みても致し方ない事象です。国民側から自ら目覚めて変化を惹き起こすことは極めて稀であり、その場合には必ず英雄の存在があり、大衆運動が地鳴りをあげて変革にひた走る場合があります。ところが大部分の国民は日常生活やごく近い視野しか考えられないのは当然であり、その瑣末でバラバラの意識粉を、国家の大動脈に構築させるものこそ、古代ローマのカエサル時代から一貫して行われてきた激動時代の政治指導者の煽動能力であります。
しかし現在のわが国では存在といえます。
本来国民を覚醒させるはずの政治家が、いまだに「自主独立・自存自衛」に目覚めることなく「対米追従・経済優先・国防軽視」の吉田茂ドクトリンを戦後わが国のバイブルとして墨守している限り、もはやお話になりません。
マスコミや週刊誌のネタに右往左往し、国民のファン投票的世論調査に一喜一憂し、国民の勝手無責任な思考に追従せんとすることで保身を図る卑猥卑屈な小粒政治屋どもに誰が付いて行くのか?
左翼に至っては、その売国奴ぶりは異常としか言い様のない程、支那・朝鮮の傀儡分子と化しています。
すなわち、現今永田町やマスコミが保守革新と言っても、一体どこの国の政党やマスコミかと疑う程、その反日ぶりは度しがたいものがあります。
わが国を世界に冠たる強大国家に再興し、世界新秩序の担い手にせんとする使命・意欲を持たずして、一体何を目的に政権にいるのか!
と云わざるを得ません。
彼らの言う「復興・復旧」と何か?
国益を第一に考えるはずの政権が、実は積極的に敵に与し、わが国を永久の敗戦国家・植民地として生き恥を晒して平然としている。
こんな輩がわが国為政者に頂いていること自体が現今最大の悲劇であるのわけです。
これら売国奴が「がんばろう日本!がんばろう東北!」といくら叫んでみたところで、戦後わが国を「自由・民主・平和」国家として偽りその中で甘い蜜を吸ってきた永田町のポツダム議会屋やマスコミの現状維持主義者どもが喧伝する「復興・復旧」なんぞ先が読めてしまう!
震災や原発問題をとりあえず終息させれば、引き続きいままで通りに何事もなかったかのように、利権を貪ることができる腐敗と混迷の戦後ボケ平和路線に立ち戻る以外に考えられない訳です!
まさに、臭い便所に住む蛆虫が、水洗トイレを望まない様に、永田町の蛆虫どもも、自らが駆除される清潔で崇高な国家を望んでいないことは明々白々であります。
われわれは、戦後わが国を、戦勝国による植民地にあると看破し、この植民地状態に陥れ続けさせる呪縛こそ、「自由・民主・平和」の欺瞞と呪文にあるとして激しく糾弾してきました。
2・平和の定義は何か?
いったい誰の自由か!民主か!そして平和なのか!ということであります。
単に「大砲が飛んでこない」状態を平和と称すのであれば、西暦1858年から約百年間大英帝国の植民地としての屈従を味わってきたインドも、また西暦1938年ミュンヘン4カ国会談において参加が許されなかったチェコスロバキアがドイツに割譲されたことも平和と云わざるを得ない。
わが国の「戦後平和」の呪縛は「戦前軍国主義の侵略戦争」に対比させられた効果満点の罠であることは明白であります。
大東亜戦争敗戦後、二度と白人帝国主義に歯向かわせない為に、わが国を徹底的に去勢してきた戦後。世界の平和を攪乱したすべての戦争責任を明治にまで遡った英霊に押し付けた洗脳教育を施し続けている。
永久の敗戦国家として、わが国が贖罪と懺悔の十字架を背負い続けている限り「自由・民主・平和」が享受される!
というまったくもって理不尽極まりないものである!
だから、何回も先述した如く、わが国は国連(国際連合)による対日軍事包囲網、NPT核不拡散条約による対日核兵器不保持監視網、WTO世界貿易機構による日本ブロック経済網の禁止そして日米安保条約による対日軍事占領の継続などによって、がんじがらめにされている中、いったいどこにわが国の自由があるのか?
わが国の犠牲の上に立脚した世界秩序においてわが国の民主はあるのか?
そして戦争すら出来ない植民地に、平和など在り得るのか?
定期的に必ず餌を与えられているブロイラーを「自由」と見るのか?
あるいは毎日死に物狂いで餌を探して大空へ飛翔する大鷲こそ「自由」と見るのか?
その価値観が今大きく問われているのです!
与えられた平和、自由、民主に、わが民族の今後の存続は望めるべくもないことは、対日奴隷化政策の最終目的が「日本民族の死滅」にあることを知るまでもなく容易に判断できるでありましょう。
「自主・自立・自衛」なくしてわが国の真の「自由・民主・平和」を獲得することも、民族の生き残りもできないことをはっきりと知るべきです!
わが国は、本当に「生きたいのか?」と問われていることを自覚しなければなりません。