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ヒットラーが戦後世界から罵倒される訳

1・民主党は元来、第二自民党である

野田政権が誕生し平成二十一年の総選挙で圧勝した民主党が、最大こう二ヵ年の政権期間に出来る限りの利権を毟り取ってやろうと目論む姑息な政権ごっこの一環に過ぎない。
古今東西の歴史を紐解いてもわかるが、維新変革に絶対不可欠であるのが英雄の存在と身命賭した闘争である。
だが、2年前の変革において改革を叫びながらも、命を賭けた1人の政治指導者も存在しなかったことは、この2年間で3人目の首相交代劇を見るまでもないことである。
そもそも民主党代表選挙を戦った連中はすべてが管内開の売国亡国閣僚であり、野田はその中でも財務大臣という重任にあり、菅売国内閣を支えてきた共犯者であることを忘れてはならない!
民主党の発足目的が、自民党・公明党からあぶれた連中の「利権横取り」にあり、決して自民党政治を覆滅する気はさらさらないという事である。
その為には元自民党幹事であり敵を知り尽くした小沢一郎、市川房枝をダシに利用した自称・市民運動家の管、売国日教組の興石など同床異夢の連中が、鳩山由紀夫の私財で建てた仮の宿、利権と地位名声を求めて群がっただけのことである。
権力や利権に憧れることに否定はしない。
日陰者であった連中が、いつか自民党から酒池肉林のねぐらを奪ってやろうとするに異議を申し立てる必要はあるまい。
しかし、問題なのはミイラ取りがミイラになったことにある。
選挙対策用の空念仏であるマニフェスト、レンホーなる事業仕分けなどの猫だまししかできない民主党が、結局行き着くところは「第二の自民党」であっただけのことである。


私から言わせれば二大政党による政権参代などは笑止千万である。
「憲政の常道」ともてはやされた大正デモクラシー時代に、政友会・民政党間でいかに政権交代ができてこなかったか。
政権維持の為には敵のスキャンダルを中傷暴露して非難しあう、外部勢力(軍部・民間・右翼)と提携して相手に圧力を掛け合う。
このような党利党略に明け暮れた結果が、政治腐敗と社会不安、経済政策による破綻を惹起させ、的確な国防力を衰退させ外国勢力による対日包囲網を着々と構築されてきたことは歴史がはっきりと証明している。
親小沢・反小沢など含め、うんざりする派閥間抗争が日常茶飯事化していること、党内首脳間での主張の食い違い、挙げ句は「初めての政権なので未熟だった」「仮免許」発言など、本気で命を賭した政治を断行しているとは思えぬ軽挙妄動など、ただただ自らの政権維持という延命の為にだけ時間を浪費する政治状態は、まさに重要患者を放置する危険極まりない状態と言わねばならない。
更に、中共・北鮮の手先である民主党の、自民党以上の売国奴ぶりは、その危険性は度し難いと言わざるを得ない。

2・不退転からのみ英雄は登場する
野田は代表選挙時から自民党など野党への秋波を送っている自体、もはや腰が引けていると言っても過言ではあるまい。 
大連立を模索する理由として、衆参でのねじり現象をとやかく言うが、これはすでに国難に立ち向かう指導者としての器量に限界があると言わざるを得ない。
そもそも万雷の拍手を持って迎えられた英雄などは世界史を見渡しても皆無に近い。
英雄や稀代の政治指導者は、不遇の境地から出現し、これらをものの見事に克服し他を圧倒してきた人物である。
「棚ぼたで衆議院に圧倒的多数の議席」をもったこれ以上ない幸運をありがたいと思わず、参議院で敗戦したからといって臆するような軟弱指導者では、まったく先が思いやられるではないか! 

 

翻って、あのアドルフ・ヒットラー総統にしても、西暦1933年政権獲得時NSDAP国家社会主義ドイツ労働者党の獲得議席数は288(議席比4.5%)に過ぎなかった。
 (共産党81議席を非合法して漸く50.9%)
「その後のスツーカ級の電撃的政治闘争により総選挙実施、他政党を解党吸収、共産党、ユダヤ人排斥などを実施する一方、労働者への労働環境の整備、ドイツ国民の福祉拡充、青少年育成、国防力拡充を波状的に実施展開したことによって、政権獲得からわずか3カ月で全権委任を掌握できたこと、ヒンデンブルク大統領の死去もあるが、これこそ大英雄のなせる天命であり身命題した闘争の当然の帰結であったと言わざるを得ない。
並の政治指導者であればこれらの成功で満足し一旦立ち止まるところであろうが、そこは崇高な世界観を抱くヒットラー総統の格の違いである。
まず何よりも重要なことは、この政権交代によって「世界が違った」ことを子供にもわかるように知らしめること。
突撃隊・親衛隊による繰り返される街頭行進、不穏反逆分子への容赦ない排撃、各種パレード、いたるところに設置したラジオからのプロパガンダの徹底、ルール、ダンチヒなど失地を奪還するなど、躍動する若い国家を肌で感じる政治を大々的に展開していったことを忘れてはならない。

3・西のワイマール・東の大正DCこそ唾棄すべき存在
しかるに、敗戦に伴い、ヒットラー総統、第三帝国を極端にな矮小化している異特性は、実はその偉大性を理解し驚愕しているが故の隠蔽工作に他ならないのである!
まさに、ワイマール体制下のドイツを第三名国の「残忍性」と、大正デモクラシー時代のわが国を軍国主義の「横暴」と対比させ、美辞麗句を繰り返すデマゴーグこそ、第二次世界大戦の戦勝国による対独対日弱体化政策の巧妙な罠にほかならない。
では、ドイツワイマール共和国とはいったい何であったのか?
第一次大戦直後の1919年に樹立された民主制共和国。
そして7年任期の大統領、内閣首班の首相、アメリカに似せたライヒスラート上院とライヒスターク下院の二院制、また世界で最も民主的と称された憲法を保持していたことでも有名である。
この憲法には主権在民を明記し、人民の権利・労働者の権利を保障した条文が散りばめられていた。
しかし、この「理想的」憲法は当然のことながらまったく機能しなかったばかりか、わずか14年間で滅び去った事実を理解しなければならない。
当時のドイツは第一次大戦後のベルサイユ条約により常備軍10万に抑制、植民地はすべて没収、領土も周囲で簒奪され、欧州中央の一弱小国に成り下がっていた。

その上フランスの強行主張による 天文学的賠償金が大きくのしかかり、ユダヤ金融資本がドイツを蹂躙、経済破綻した超インフレーションが跋扈する始末。

北部国境ではのぼせた弱小ポーランドにさえ盛んに領土侵犯されドイツ人が殺されても手も足もでなかったほど。
まさにいくら立派な憲法を高唱しようが、(ヒットラー曰く)「共産主義者とユダヤ人の牛耳る国際的な豚小屋」にその理念を実現する実力がないことは明々!
屈辱に塗れたドイツ民族主義者が黙っているはずもなかった。
よって真の英雄の登場、強力なプロパガンダと闘争部隊が街頭を制圧し、敵対政党を粉砕。政権奪取後6年間で欧州を凌駕する一大帝国となったことは歴史の証明することである。
戦勝国による対日弱体化を実施されている戦後わが国こそ、私が常に主張しているがごとくわが国近代史上最も弱体化した「大正デモクラシー」時代の「再現に他ならない。
「西のワイマール、東の大正デモクラシー」賛美こそ、英米露の目論む戦勝国の恒久的支配体制を維持する為の、対独対日策動に他ならない。

いまこそ、敗北の申し子である戦後デモクラシーを粉砕し、その裏に66年間封印されてきた大祖国の再建と白日の下に照らさねばならない!
平成23年9月1日

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