超国家主義『民族の意志』同盟
少数こそが圧倒的多数を破壊できる!
まもなく同盟結成17年目。靖国神社での結党式が昨日のような気がします。
いつも言っている事ですが、運動はそれ自体が有機体であり、絶えず成長に向けて邁進していますが、その過程では凄まじい程の細胞が新陳代謝してしかるべきです。
そもそもわれわれ人間のからだは約60兆個の細胞から形成されており、毎秒50万個の細胞が死んでは生まれ変わっています。
運動も同様、その時々に必要とされる最高の人材が集い、時機変遷に応じ適材適所に入れ替わることはごく自然の道理です。
そのような変動の融通性があればこそ、逆境耐え忍ぶ時期にもまた勢い天突く躍動する際にもまったく想定通りに対応可能となるのです。
しかしながらサークル活動などのように単に組織維持や外面上のみにこだわる輩は、組織の肥大化と引き換えに本来その運動が持っていた独自性と有能な特徴を妥協という心地よい響きによって削ぎ落としているのです。
そして本来その運動が目指すべきロマンの旗を畳んでまったく異なった相手の言い分を取り入れ、結局は自身が身動きが取れなくなって何をしているのかわからなくなってしまうのです。
古今東西の歴史を紐解いても、皆の意見を取り入れ多数派が変革を断行した例はありません。
逆に少数こそが圧倒的多数を打倒粉砕するのが維新変革の真髄であります。
何故ならば、圧倒的多数派は、既成価値観に対する不平不満が内在していても畢竟、これらを打倒する勇気はなく諦観と無責任の汚濁混迷の中で身動きの取れなくなっている状態に陥っている。
だからこそ既成が維持されているだけなのです。
まさに圧倒的多数派とは様々な打算と妥協で構築されている砂上の楼閣に過ぎません。
このような状況下、既成にとらわれない少数精鋭による非妥協の一閃こそが、どっちつかずの圧倒的多数派を総崩れにしてしまうは、既にフランス革命、明治維新を始め歴史が雄弁に語っていることです。
民主党政権樹立の際に述べたように、「自民の派閥間での政権交代→政党間政権交代→政党政治への懐疑→政党政治の崩壊と新たな政治体制」へと推移することは必須です。
石原慎太郎氏は長く自民党国会議員をし閣僚まで経験された所謂典型的な既存政治家です。
都知事辞任直後たちあがれ日本など既成政党との融合を図ることなどを鑑みれば依然として既成概念にとらわれた修正主義に走っていると感じられます。
橋下代表も、既成政党から小物政治屋をかき集めて政党化するなど、「維新」の看板を掲げるわりにはいかにも姑息で矮小的です。
次回総選挙に相当数の人材を集めるようですが、その審査委員が既成価値観の手垢がたっぷりとついた小泉政権の亡国経済閣僚・竹中平蔵氏や堺屋太一氏とくれば、もはやどこが既成で誰が維新なのが皆目見当がつかなくなるのは当然でしょう。
維新や改革とは名実ともに「破壊」が不可欠となるのであり、そこには既存価値観や常識に対する冷徹なまでの非妥協こそ、唯一無二の姿勢と政策に他ならない筈です。
だから青年の無垢なる至純、漲る気迫、隆々とした暴力、大ロマンに向かう峻厳なる規律と滅私奉公こそが、怠惰と打算に裏打ちされた中途半端な老人を無慈悲に粉砕できるのです。
すなわち、既存の国会議員の所属政党名をいかに変えようとも中身はまったく相も変わらないのであり、手垢のついたそれら国会議員どもを永田町から放逐することが変革の第一歩に他なりません。
政党の離合集散や選挙区の格差、現在の政治家の質をいくら問題にしても、一度付いた染みは二度と取ることが出来ません。
維新変革とは人事の刷新を指すのであり、彼らを駆逐一掃するのに何の妥協も理由もいりません。
妥協の産物で政権に坐らされているから、外国の横暴に対しても事なかれ主義で対処せんと目論んでいる。
繰り返しますがこれこそ対米屈服主義者・吉田茂以降一貫した戦後価値観の典型です。
妥協とは結局は「どうでもよい」ことに繋がるのです。
北方領土・竹島を不法占拠しているロシア、韓国、尖閣を侵攻せんとする支那。
これらに対して心底怒りを沸騰させてわけでもないし、現に戦後67年間本気になって奪還する言動をしてきた形跡もありません。
要は、民主党であろうが自民党であろうが、議会制政党がわが国の主権や領土を守る気などさらさらないことを十二分に理解せねばなりません。
ましてやわが国自身が戦後一貫していまだにアメリカの植民地にあることを自覚している政治家が何人いるのか!
いま「わが国は一体生き残りたいのか?」という究極的課題に直面していることを強烈に理解せねばなりません。
それは消費税を上げることでもなく、政党を統廃合することでもないのです!
たとえ戦争に訴えてもわが国の主権を断固守護するプライドと非妥協の強烈信念を保持しているか!
が問われているのです。
ならば、総選挙ばかりが権力への道ではないことを、いまもう一度大正デモクラシーの時代から正確に学習しなければなりません。