超国家主義『民族の意志』同盟
死に物狂いの平和探求
平成27年8月1日
安倍内閣の所謂「安保法案」に関して世間が騒いでいますが、内容はともかく実に稚拙な国会論争で辟易です。
与野党の馴れ合い、敵失引き出し合戦、枝葉末節的愚問など、これが「国民に選ばれた代表者」なのか?
独立主権国家としての気概も覚悟もまったく見られません。
歴史・伝統・文化に裏打ちされた国家の大本を見ず、与野党ともに、ただただ現在のアメリカによる植民地状態を「自由・民主主義に根ざした」最高平和と履き違え、頑迷固陋にもこれの維持固執に論点が置かれている姿が露呈されています。
そもそも、「与えられた平和」にうつつを抜かしこれを金科玉条としてきた戦後わが国は、これに手を加える一切の作業を「罰当たり」としてきました。
まさに戦後エセ平和タブーがおぞましいほど末端まで浸透した証拠です。
今回の安倍内閣など所謂保守側における一連の法案は、現在の敗戦国状態を脱却することよりも、今以上に宗主国アメリカに擦り寄ろうとする情けない姑息策動に他なりません。
この意味で、わが同盟は安倍内閣の「安保法案」に関して反対しています。
片や反日策動に狂奔する左翼やエセ市民分子は、「九条番犬」としてキャンキャン喚いている。
これなど実は何も平和貢献していないのは体裁が悪いとして、アリバイを「われわれが憲法九条を守ってきたのだ」に求めたに過ぎません。
与野党ともに、このように己を祈祷師や呪術師に見立てた「平和」呪文者がわが物顔で闊歩する思考停止状態が七十年間続いてきたわけです。
まさに「お気楽の」平和に慣らされた「何もしないこと」が平和であるかの錯覚がそこにあります。
「何もしない」ことは、つまり危険に繋がるすべての芽を「見ない、聞かない、喋らない」ことであり、「太鼓を叩き憲法九条を御旗」にしさえすれば、戦場の弾丸も地雷も避けてくれるとするオカルト思考に他ありません。
国防とは自主独立主権国家存立の大本のひとつであります。果たしてわが国が、「自主」「独立」「主権」に対する気概と覚悟を持っているか、はなはだ疑問を呈さざるを得ないのです。戦争に「自衛」も「侵略」も無いように、「集団的自衛権」という言葉自体がもはや不毛の論議に終始しています。
そもそも日米安保条約(在日駐留米軍、おもいやり予算、基地提供など)でわが国から米軍機や米艦船が堂々戦場へ出航出撃する、帰港帰着して休息修理するなど、れっきとした「集団的自衛権」ではないか!
この片務的日米安保条約の破棄と自主自力の国防力拡充をはかることは、真の自主独立国家であれば与野党、保守革新の別なく当然の思考であるはず。
国家民族の安全を維持成長する為には、ありとあらゆる選択肢を創造準備しておかねばならないことは、何も国防に限らないことです。
戦争や喧嘩を前提に論議するのではなく、国家民族守護には、国際世論・外交・資金・経済手段を講じるのみならず、たとえ単独でも断固護り抜く強烈な「覚悟と意志」が、そして「血を流す」覚悟が不可欠であることは言を待ちません。
デモや集会などと言うと、以前は危険なイメージがあり特定の人々の限られた行動でありましたが、最近では「お気楽な」お祭り気分で参加できることに一種の違和感を覚えます。
デモなどの「実力行動」は「話し合い」の対極に位置付けされており、実は「議会制民主主義の否定」が内在していることを実は理解しておく必要があります。
大学生や高校生が、荒削りながらも純粋な気持ちでその肉体を使用し行動しているのであれば、その勇気は実に感銘に値するものですが、内容を鑑みると、既成価値観を覆滅する為には逮捕も辞さぬ、わが身の生命すら差し出す「至純な覚悟」があるのかと疑問せざるを得ません。
更にあろうことか、民主党、共産党、社民党など野党の首脳を迎い入れる馬鹿さ加減を見れば、その正体見たり。
共産党や左翼に操られ本来であれば、「安保法案」なるものが選挙で選ばれた国会議員で論議した結果、採択通過というならば、それはいくら反対者がいたとしても結局は与野党の共同責任であるはず。
「私は反対したが、議員数が少ない・・」などいくら自己弁護しても「民主主義ルール」に則った議会制民主主義にあっては賛否双方に共同責任を免れ得ません。
すなわち、国会決議である限り、その責任回避は断じて許されるものではありません。
「泣き言」を言うのであれば、己の数の少なさを嘆く前に党勢拡大の努力を反省すべきであり、また、数で劣っていただけで「降伏」する程度のやる気の無さを猛省すべきであります。
そして、そのデモを仕切る団体にしても、そのような情けない野党を「味方」にするのでなく、安倍政権および与野党含めた議員すべてを、そして選挙・議会制度自体を否定糾弾する気概を持たねば意味ないと痛感します。
国会の「出来レース」を否定しこれを覆そうとするのであれば、断固、国会否定、議会制政党政治をも否定する勇気と覚悟を持たねばならないのです。
真の自由・民主主義とは無責任の多数決ではなく、責任ある少数によって構築されることは、旧来を万雷の歓呼で迎えられた古今東西の維新変革の内容を鑑みれば容易に判断できるでしょう。
今回国会を包囲するデモが目立っていますが、逆にそれに反対する勢力も出現しています。
その流れは、現在の「ふわっとした」流れから、「規律と覚悟をもった」身命賭した憂国青年の先鋭勢力=世界観政党が堂々と台頭する道筋が出来つつあると確信します。
わが同盟は、従来から維新変革は街頭から惹起するのであり、貴族サロン化する議会制民主主義の否定、「投票箱」制度の粉砕にあります。
既存否定=非合法をも辞さぬはもの当然の理です。
「平和」とは常に、流血の中から出現するものであり、大きな犠牲があるが故に、尊いと言わねばなりません。
他人が作った「常識」をひたすら守っていること、他力本願で自己の満足を得ようとする先には、奈落の底が待ち受けていること必至と理解せねばなりません。