超国家主義『民族の意志』同盟
偽悪者の勧め
1・アドレナリンの誘い
「暴力」「戦争」「喧嘩」
何という美しい言葉だ!
アドレナリンが湧き出でる。
身体中の血管が臨戦態勢だ!
耳元で突撃太鼓が乱打さる!
血流アウトバーンで駆け巡る栄養剤が全筋肉をみるみる増強する!
倦怠と怠惰に馴染まぬ全細胞が、攻撃準備できる喜びを自覚した瞬間こそ、最も自我と自尊心を感じる時である!
理性に対する感情の超越!
常識に対する非常識の勝利だ!
剥き出しの本性が偽善者を叩きのめす瞬間だ!
これに対し殆どの者が訝しく眉をしかめる。
その仮面をつけることが戦後デモクラシー社会に生きる巧緻な手段だからだ。
戦後偽善者は公然と説を垂れる。
「感情を抑制してこそ立派な大人だ」と。
偽善舞台では、暴力はルール違反!
即刻退場処分を食らうのだ!
口舌を正当化する理性と常識は、「話し合いと多数決」を最大の美徳とする。
誰が信じるか!
暴力否定を言いさえすれば正義か?
そこには、腕力以上の狡猾で陰湿な暴力を肯定する百鬼夜行の社会が覆っているではないか!
2・暴力とは
だが戦後、暴力の定義を曖昧にし、悪=暴力のレッテルで片付ける陰謀が渦巻くのだ。
暴力を振るう者は理由の如何を問わず悪人レッテルを張られ腕力そのものが悪性要素と化している。
わが超国家主義運動の黒色隊服に身を包んだ規律ある統制行動。
敵に対する果敢な攻撃行動は、いままで数々の喧騒と物議を醸し出し、熱狂的支持と憎悪の二極化を醸し出してきた。
しかし、わが運動の基本姿勢は一貫して不動である!
何故なら、一つの心理的普遍の確信がそこに存在するからである!
即ち、暴力否定は暴力に対する畏怖の反証である。
元来、生動物の命脈は強者に対する羨望の他ならない。遠方の暴力には冷笑の対象として、しかし暴力の接近で忌避と賛同に分化される。
遂に直接暴力に曝される時、人は暴力に従する一種の肯定的要素を敢えて見出すものなのだ!
つまり、暴力が強ければ強いほど、魅力は増幅されその虜となってしまうのだ!
また、一方、腕力持たぬマスコミの狡猾で陰湿な言論暴力こそ、生動物条理に反した「強肉弱食」の醜態に他ならず、自然界における正当な姿である、「腕力の復権」を目指す者こそ、必然来たる現状覆滅の担い手となるのだということを忘れるな!
但し、この「腕力の復権」を私益追求に使途することは、当然に認められないし、拡大発展などは到底覚束ない!
義的政治的に「腕力復権」を大衆にまで敷衍させるべくは大義である!
戦後わが国には、暴力装置を抑制するが為、あらゆる分野において「大義」が去勢されてきた。
大義なき国家は国民の結束をズタズタにし、閉塞卑下した国民精神は腐敗混沌の極地に置かれた事は云うまでもない。
更に、暴力・腕力の必須要件は行動である!
これこそ、死んだ文章や能書き評論には真似のできない結果の花を咲かせるのだ!
行動はそれ自体が理屈ではなく「言い直し」の出来ない感情の体現に他ならない!
故に、文学や評論の百万の美文でさえも、至純感情の発露たる一閃の行動美学の足元にも及ばないはずである!
その行動原理を組織として集団美の域にまで拡大させるためには、大義と同時に神秘性に裏付けられたダイナミズムが不可欠である!
軍隊を例にとるまでもなく、令一下、一斉行動の厳格規律による暴力組織は、その力強さと破壊力において最強の暴力組織であり、命を賭した若い戦闘集団の醸し出す集団美は、まさに最高の神秘であり耽美である!
勿論、一人一殺も至高の美学であることに間違いはない!
己自身に対する至純な極地に立ち、己の死と引き換えに敵を屠る必殺行為はそれ自体が至純の美的暴力である。
それと併せて大衆を領導し現体制を覆滅、政権奪取すべくの組織運動を構築し、更には外敵との新文明戦争を戦い勝利する国家組織暴力を展開する為には、一層のダイナミックと狂信的民族主義に基づく神秘的集団美を兼備しなければならない。
3・暴力を育む感情とは
また、戦後日本において「暴力」を徹底的に取り締まってきたが、その共犯者として暴力同様に厳しい監視下に置かれてきたのが「人間の持つ剥き出しの感情」である!
「感情を抑制すれば暴力を抑えられる」と踏んだ戦勝国とその傀儡政権は、感情の代わりに「理性」を配置したことは先述したとおりだ。
更には、おのれの感性を発露させるのが感情であれば、その感性から戦闘的遺伝子を去勢してしまうことが最も効果があるわけだ。
故に、戦後デモクラシーにおいて、「大東亜戦争=侵略行為」洗脳を徹底させ、永久の贖罪行脚をわが国に押しつけてきたが為、卑屈・自虐の感性に苛まれた感情と暴力は、当然に自暴自棄とならざるを得ないのだ!
常に怒られてビクビクしている臆病醸成装置こそ、戦後デモクラシーの最大目的であったのだ!
いま、祖国は、粛々とと殺場へ駆り出される養豚のような惨めな姿を晒している!
生きながら既に死んでいる脳細胞を再覚醒し即刻自覚を奪還させねばならない!
己が自分で知覚した喜怒哀楽!善悪!美醜!を感情で爆発させねばならない!
誰の感情でもない!
己自身の感情をおのれでコントロール出来ない事自身、もはや生存に値しないではないか!
生きるまねをしているだけで、もはや自らの意志も自由も与えられない無感情の養豚デモクラシーで満足するつもりか!
あるいは大自然を己の意志で駆け巡る獅子となるか!
暴力を怖れ続ける豚になるか、暴力をわが手に帰する獅子となるか!
決めるは己自身の意志である!
4・デモクラシーの自己矛盾
~理性と個人主義
養豚でも怒るときはあるだろう。
同様に、わが国においても感情を完全に去勢することは人間やめるない限りはムリである。
そこで、戦勝国はより巧妙な策略を実施したのだ。
公の「感情と暴力」はこれを断乎取り締まるが、日本弱体化に繋がる内紛や同士討ちに使われる「感情と暴力」は大いに奨励してきたのだ!
個人主義という美名の下で積極的に富の争奪戦や些細な個人的反目を増幅させ民族的結束をバラバラにしてきたのだ。
この巧妙な対日心理政策によって、国民は「自由競争社会」こそ「地上の楽園」として盲目的に戦後デモクラシーの鉄鎖に繋がれることとなった。
民族的感情を唾棄し対米屈従を理性に置き換えた。
大義を忘れた戦後日本において、発露の場を失った感情のはけ口は、デモクラシーのどす黒い一面である個人主義へと濁流したのだ!
陰鬱した感情は、陰湿でドロドロとした偽善者を次々と輩出してきた!
まさに、表の「理性と常識」の裏で「蛮行と非常識」の不条理がまかり通っているのだ!
更に驚くなかれ、全ての国民がそれを当然の作法として容認し合ってているではないか!
「大人の社会とはそういうものだ」と青少年に説教たれている養豚大人!
現実に屈服し、己の感情に嘘をつき続けてきた無責任者の怠惰が、祖国から矜持と自尊心を去勢させてきたのではないか!
何がデモクラシーだ!
自由主義だ!
民主主義だ!
これらの意義も目的も思考することなく、目の前にあるものを無条件に甘受してきた無為無策こそが、わが国の自主独立を激しく損なってきたのである!
おのれ一人でひっそり自分を騙し続けながら命脈つなぎとめていればそれでよし。
が、いっぱしの論を評しているが、実際には党利私欲に狂奔し祖国を蝕む偽善者には必ず天誅を下さねばならない!
5・正義は強者による強者の為の秩序
先述した内容に対し「暴力反対」「戦争反対」と高唱喧伝する輩がいる。
それはそうだろう。
誰しも好きで暴力や戦争するわけではない!
しかし、私が言いたいのは、この言葉を発する資格持つは、いつの時代にも常に強者の専権事項であると言う紛れもない事実だということだ!
いま、わが国で真の強者はいるか?
日本は世界の強者か?
NOだ!
では、将来、日本はこのままで強者足り得るのか?
結論から言おう。
民主主義ある限り日本は強者になる得ない!
民主主義自体、弱者が主体たる歪な社会であるからだ!
特に「多数決原理」「非暴力」「対米屈服」の三点に依拠する戦後デモクラシーは、米国に屈する植民地であり、一人の責任指導者を創設し得ない多数の無責任の弱者が支配する無力の民主主義である!
もはや米国に飼い慣らされた弱者どもの政治はうんざりだ!
再度言おう!
現今あらゆる政治経済の腐敗原因は、ひとえに弱者支配の政治の結果である!
永久の敗戦国家で満足する戦後デモクラシー信奉者の脳天を叩き割れ!
対米盲従一辺倒、拉致者を24年間もなおざりとしたことでも判明できる対外屈服卑屈外交を「正しい」とする現在の常識は、わが超国家主義運動の「非常識」の暴力によって微塵に粉砕してくれよう。
その暁に、来たる民族主義政権が一朝にして価値観を180度ひっくり返してやるのだ!
偉大な国家は偉大な民族から発する!
そして偉大な勇者が国政を担う時、旧来の鬱屈は瞬時に解消することであろう!
あらゆる現実との非妥協!
暴力肯定!
戦争肯定!
喧嘩上等!
非難上等!
の偽悪者こそが、激動新時代わが国を領導する英雄指導者たることを強烈に銘記せよ!