超国家主義『民族の意志』同盟
暴力は行動芸術
1・政治家・マスコミ人の宿命
戦後ボケ平和に耽溺しきったデモクラシー信奉者は、暴力と聞いただけでこれを凶悪犯罪然として取り上げ、そしてマスコミは手をブルブル震わせてその都度絶叫するのだ!
「言論を封殺する暴力は断じて許さない!」と。
「許さない!」とはどういうことか?
まさにこの点が虚構の平和に盲信する空論者の無責任性が現れているのだ。
だから歴史は必要があればいつでも、どんな理由によろうともテロ・暗殺を実行してきた!
また、テロリストは本来、その行動によって当然に自らも相当な負荷を背負うことになる。
ゆえにその負荷に見合った対象物、効果を上げることを要求するのは当然である。
特に政治はそれ自体が権力を争奪する闘争を意味し政治家は政敵を屠る権力を掌握することが可能である。
更には、指導の是非によって国民を戦争へ駆り出すことも苛斂誅求を強いることもでき得る立場にあるがため、古来からテロ・クーデターの対象となる宿命を帯びてきた。
一方、近年では大衆への影響力拡大にともなってマスコミの社会的責任が一段と高まり、大衆を愚弄洗脳する売国亡国マスコミは真っ先に血祭りに上げられるは必定だ!
個人的な利害関係や私憤の殺人は別として、本来その言動の是非や人格の有無をまったく問うことなく、その存在自体こそが、常にテロ・クーデターの対象物となっていることを、果たして現今の政治屋やマスコミ連中は認識しているのであろうか?
現在の法秩序の完備された民主主義社会ではテロ・クーデターはタブーであるとの空虚な根拠はいったい何か?
直接的肉体的衝撃を与える実力行動=暴力は、それが故に間違いなく瞬時に効果と成果をあげてきた。
これに対し、この犠牲者となることへの強烈な恐怖を回避する手段として、人類は高度な交渉力や話術を生んできたし、双方相討ちによる共倒れへの畏怖が抑止力となり暴力の不使用効果をもたらしてきた。
その一定範囲の抑制装置が法秩序である。
そもそも秩序と法律などというものは、人類が普遍的に抱いている破壊的暴力への魅力を極力抑止する一時的ストイシズムに過ぎないのだ。
そしてこの暴力魔力を思い止まらせる法秩序のバックボーンは一体何か?
理性?
道徳?
否だ!
暴力を抑制するものはそれよりも圧倒的巨大な暴力に対する恐怖と諦観があって初めて効果があることに他ならないのだ。
要は、暴力は暴力によってのみ抑制され得ることにほかならないというテーゼをはっきりと抑えておかねばならないのだ。
ゆえに「話し合い」「非暴力」のみで物事が解決できるとする絵空事はまったくのナンセンスであり、ゆえに、理不尽に対しては彼我の大小を省みず、やむにやまれず敵を血祭りに上げるは歴史の常道であったことを忘れてはならない!
その大前提を踏まえ、いつなんどきでも銃口の前に立たねばならぬの胆をもって政治や言論活動に邁進しているのか?
近い将来、この踏み絵を踏ませる時期が近いことを彼らは知ることとなろう。
2・暴力は自然の摂理
多くの人からこのような質問をいただく。
「森垣さんは暴力やテロを肯定されるのですか?」と。
当方は言下に答える。
「その通り肯定する!」と。
暴力肯定と言っても、無闇やたら乱暴狼藉を働くことを奨励するものではないが、他方、すべての問題が「話し合い」や「非暴力」の土俵上で解決できるとした考え方もあまりにも非人間的であり安直かつ愚昧であると言っているのだ。
本来己の意志や考えを相手に訴える、更には本気になって自らの主張を通さんとする場合、頭脳・口舌・腕力・脚力・人脈など持てる力をすべて駆使し相手を説得屈服させるは至極当然のことである。
もっともその本気度が弱ければ舌先だけで済ます場合も数多いのだが、ここではあくまで崇高な理念を抱き天下国家を指導せんとする地位にある者を指摘するものであり、その者は己の言動や立ち居振る舞いに虚構や冗談であっては断じてならないのだ!
しかるに、話術・交渉能力に長けている者はその能力を最大限発揮、人徳ある者は味方を多数集めその力を示せばよい。
また腕力や武力に長けている者はそれの示威発揮をもって影響力を行使すればよいのである。
要は、手段を選ばず、己の目標実現に対しどこまで本気であるのか!
という根本命題にぶち当たらねばならないのだ!
特に、暴力やテロという愚直なまでの直接的公然行動には、誰の目にもはっきりとわかる結果が発生し、それに伴う責任が降りかかって来ざるを得ないのは明々白々である!
しかしながら、近年、己の本気度を隠蔽する口実として、証拠として明確に残る実力行動を回避し、安直に前言を翻したり引っ込めて頬被りする者、更には失念したと称して恥と思わぬ厚顔無恥が許されている。
「暴力=直接行動、非暴力=間接行動」
の図式のなかで、口に出した言葉、書き記した文章の結果責任は暴力よりもはるかに軽いという錯誤がそこに見受けられる。
ゆえに、逃げられぬとみれば頭を下る、謝罪広告を出しさえすれば事が済むとした風潮が蔓延し、結果責任の軽さから無責任がはびこっているではないか!
戦後マスコミや政治屋どもの中にその意識が強い。
「政治改革」「憲法改正」「教育改革」を叫ぶも良いだろう!
ますます凄惨を増す社会犯罪を泥縄式に批判するのも良いだろう。
アメリカの植民地たる現今日本の現状で満足しているマスコミ、永田町連中に本気で現状を打破し祖国・国民を守り抜く気迫も意欲もあるはずがないではないか!
自らの生命をアメリカに守ってもらおうとする卑屈な対米盲従思考で、どうして本気の政治や外交ができようか!
そこにはもはや国家としての尊厳も矜持も存在していないのだ!
このような狡猾で稚拙な小人どもが、党利党略・私利私欲に勤しみ、場当たり的都合で軽口を叩くオチャラケがまかり通り、はたまた自らの意志もたぬ建て前論で茶を濁す無知無能!もはやバラエティー、漫才、ドラマの延長線上にフィクションの政治・マスコミがあるのだ。
鶏毛ほどの「政治ごっこ」「マスコミごっこ」が権力者面している摩訶不思議がそこにあるのだ!
そしてこれら亡国マスコミ、永田町蛆虫どもが唯一無二の拠り所としているのが、「言論の自由」「議会制民主主義」である。
即ち、「何を言って書いても肉体的苦痛を味わうことがある筈ない」と。
売国マスコミ、デモクラシー政治屋は、まるで天敵のいない豪州のカンガルーやコアラの如く虚構の栄華を満喫しているのである。
この根拠なき保障!
これで暴力を封殺でき得る!
とした馬鹿馬鹿しい虚構を、いまこそ人類伝来の基本定義に立ち返り、瞬時に叩き壊さねばならないのだ!
すなわち、「最後に物を言うのは何と言っても直接的実力行動に他ならない!」ことである!
百匹の羊は、飢えた一匹の狼によって食い殺されるという自然摂理を再確認させねばならないのだ!
大正デモクラシーの二の舞をさせてやらねばならぬ時期が近い将来到来するは必然だ。