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覚悟なき者は去れ!

~朝日新聞の謝罪にみる
覚悟なき無責任社会を排せ!
1・朝日新聞の甘えの構造
編集人 朝日新聞の一連の社長謝罪に関してどうお考えでしょうか。
委員長 朝日新聞が戦後七十年間でっちあげ積み上げてきた自虐的史観は、わが国内外に極めて甚大かつ深刻な状況を構築してきました。
戦勝国および支那朝鮮からの言われなき不条理こそ、わが国国内に巣くうこれら売国奴の手引きによって発生増大してきたことを極めて厳しく糾弾しなければなりません。
わが同盟は毎年3月日に東京築地本社に出向き、

「阪神支局襲撃の根本原因は朝日新聞自体にある」

「小尻記者を殺したのは朝日新聞自身である」

ことを強調しその売国奴・利敵策動に対し警鐘乱打してきました。

都度、朝日新聞は大量の警備を要請し幾重にもバリケードと警備人の壁を張り巡らせる。
「暴力否定・話し合い」を身上としたマスコミの土俵に同盟が乗ろうとするにも拘らず、わが同盟の提案する紳士会談すら拒絶する始末。
話し合いすら拒絶し、官憲暴力で民間暴力を阻止できると自惚れている朝日新聞は、小尻記者の死から学習をする気も無く、或いは同様な事象は起きないと高を括っているのか、依然として相も変わらず利敵策動に狂奔し祖国の歴史を改竄してまで罵倒愚弄してきました。
まさに現在の国家国民のみか英霊父祖から将来の子々孫々までおぞましい精神破壊活動を展開してきたのです。
このような国家国民に対する裏切り行為は、戦前であれば国家反逆罪、現在であれば破壊活動防止法が適用されて至極当然であります。

社長以下責任者を極刑にするのみならず会社自体の閉鎖となるべき重大事象に対し、朝日新聞はまったく考えが極めて甘く世間を舐めきっているといっても過言ではありません。

 

2・反撃届かぬ安心感が記事を軽挙にする
さらに重要なことは、売国記事を垂れ流した朝日新聞は、ことの重大性を真に認識しているのか?
そこから派生する強烈な反撃反論に対し真正面から受けて立つ覚悟があるのか?
これらに対し、極めて疑問視せざるを得ません。
社長謝罪で水に流せる程度の認識しか持たぬ連中が作り出す記事!
その一言一文の魂?

は、空虚な訂正謝罪で覆るようなものなのか!

社会の木鐸たらんとするのであれば、新聞記事のすべてに亙って社員全体が責任を持ち、一字一句まで社運を賭けている気概があるはず!
逆に、現今朝日新聞が行っている反日利敵活動は、実は社運を担って実行している覚悟というのであれば、これに憤った個人や集団、権力から激しい仕打ちや弾圧を受けたとしても、朝日新聞は誰に助けを求めるべきでなく、たとえ社長社員が殺され社屋が焼け落ちても最後の一人になっても売国記事を書き続ける覚悟があるのであれば、まさに敵ながら感心せざるを得ない。
その場合は喜んで最後の一人まで抹殺し報いねばなるまい。
「ペンが剣より強い」と吹聴するのであれば、対置される暴力の肯定から堂々と主張を展開する度量と勇気が要求されるのです。
ところが現実は、このような覚悟も持たずに常に己の身を安全地帯におき、常に誰かの救いを探しながら軽挙妄動に批判記事を垂れ流す一方、ほんの少しの被害にも針小棒大に振る舞う醜態が見受けられるのです。
このような臆病者・卑怯者にいったい誰が真の信頼を与えることが出来ましょうか?
わが国を代表するプレスとしての自負があれば、本来ならば、支那朝鮮はじめ外国から不当な言動があれば、たとえ世界を敵に回しても堂々とこれに異論反撃をして祖国の矜持と国益を守護してこそその存在が示されるのであります。

 

3・売国マスコミが蔓延させた「覚悟なき無責任社会」
朝日新聞などがでっちあげた自虐的史観の中で倦怠感虚脱感が蔓延する政治・社会において、極めて理不尽な無責任がそこに存在するのです。
戦後価値観における最大の風潮=無責任こそ、マスコミが率先し、政治屋が追従し世間に蔓延させた戦後のペストに他ならないのです。

覚悟無き社会が漂う悲劇が現状の腐敗と混沌の現況であるのです。


編集人 覚悟ですか?
委員長 そうです。

より簡易に換言すれば、「俺はしっかりとここに生きているんだ!」という自覚であり証しに他なりません。
現在の風潮を鑑みれば、己の言動に対し自己フォローしない、最後まで見届けない、言動から派生する他人社会への影響から目を背ける。
これでは己の主体性を自覚できないばかりか、自身の存在を軽薄にし、フェードアウトし自己否定に繋がるものです。

もっと言及すれば、生きているのか? という根本問題を疑問視せねばなりません。

 

編集人 目立ちたいという人が多いようですが。
委員長 現在目立ちたいという人達の多くは、「いま楽して人からチヤホヤされたい」のであり、果たして己を犠牲にして他人や社会に尽くす気持ちがあるか、そして自己の意志に基づきあらゆる反対をものともせず、己で判断を下し、そこから発生するすべての影響に対し責任を負う気概を持っているか、はなはだ疑問です。
ゆえに、責任とは社会に対するものを指す以上に、己の意志に対する責任を強烈に求めなければならないのです。
覚悟とは、強烈な己自身の意志を示すことに他なりません!

 

4・誰も朝日新聞に社会の審判を任せていない!
再度繰り返えしますが、今回の朝日新聞木村社長の謝罪に対し、この覚悟なき無責任が如実に出ているのを見落としてはなりません。
ペテン記事を書き続け世論を誤誘導しシナ朝鮮に利敵策動してきた朝日新聞の大罪は、断じて許すことはできないし、この支那中共人民日報日本支部は即効閉鎖すべきと考えます。
その一方で、朝日新聞の極めて卑怯で情けなき伝統的社風こそわが国知識人を腰抜けにしてきた見本として徹底的に追求糾弾せねばならないと断じます。
戦前戦後を通じ、朝日新聞の覚悟なき無責任が世間に敷衍した責任は極めて重大であります。
そもそも朝日新聞の無責任は、その根底に朝日新聞の不退転の意志というものが存在していないのです。
反権力とは聞こえが良いが、強烈な反日煽動を繰り返す裏には、外国に媚するわが国の政府があり、ならば反日支那、朝鮮と攣るむことによって日本政府以上の権力が得られると認識しているからにほかなりません。
戦前の朝日新聞が、何ゆえに軍部の太鼓持ちであったのかと顧慮すれば、その時々の事実上の権力にすがって生き延びようとする浅ましい姿が露呈されるのです。
マスコミは、己の身に火の粉が降り掛からない算段として「中立と公正」という殺し文句を主張して止みません。
一体誰が、どのような理由で、朝日新聞などの一部マスコミごときに、「社会のレフェリー」を委ねたのでしょうか?
マスコミは、戦前の己の立場を「軍部に抑圧された善良な知識人」とでっち上げ、軍部が消滅するやいないや「戦前軍国主義に抵抗した唯一の英雄。
戦後は軍国侵略を警鐘するカナリヤ」という驚愕的詐欺行為を恥じも外聞もなく主張して止まないのです。
私がマスコミに対して常に警鐘を鳴らしてきたことは、「公正と中立は俺たちの専管事項である」とした完全無欠の正義漢による独善意識に他なりません。
よほどのことが無い限り、現在では出来事の日時、場所には客観性が内在していますが、その評価に関してはそれぞれの経緯、角度から様々な主観が入ることは当然です。
ゆえに、記事の書き方や結論では、是非無くその記者や発刊者の主観があるのは当然です。

 

5・人生は主観である
戦後わが国から「覚悟」が消えたが故に「主観」が存在出来ないといっても過言ではないのです。主観なき人生など一体何の意味があるのでしょう?
逆に「客観」とは一体何か?

主観なき人の集大成である「客観」とは一体何であろうか?
戦後わが国に対するあらゆる弱体化政策の基本は、わが国から主観を去勢することにあるのです。
主観=感情の去勢による、あるがままの現状甘受と現状無批判こそ、戦後デモクラシーの無条件信奉に他なりません。
「わが人生のレフェリーは己自身である!」の強烈な自尊心こそ、今わが国で最も要求されているのであり、現状を白紙に戻し、身の回りから改めて主観的視野で眺めねばなりません。

覚悟をもって!


編集人 貴重なおはなし、誠にありがとうございました。

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