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奉仕こそ、己の存在意義を探す崇高な行為

1・奉仕の意義とは
3・11の大震災に対してまったく無力無能な戦後デモクラシー社会の瓦解が間違いなく始まったといえます。
社会への貢献や奉仕に関する意識付けが極めて明確化されたことで新たな社会運動のうねりが発生しつつあります。
罹災者の同胞として、

「何が自分にできるのか?」

「できることを是非実施したい」

と考える機会が与えられ、事実、5月のゴールデンウィークには、何万人という人が続々と罹災地に駆けつけ様々なボランティア活動に従事したことはきわめて特筆すべき事象です。
永田町が本来しなければならないはずのボランティアを全国の国民が、時間を割いて手弁当で挺身する姿には頭が下がる思いです。
ボランティアすなわち奉仕は、いままで何やら「宗教的」「半強制的」傾向があると思われ、どちらかというと「偽善的」「教団利権」「洗脳」といった目で敬遠されていた嫌いがあります。

中にはまがい物もありますが、実は「奉仕」は社会に生きる人間にとって無くてはならない要因があることを忘れてはなりません。

 

「力ある者が弱者に恩恵を施す」ことを奉仕と考えることは大きな間違いであると思います。
一人では絶対に生存できない人間として、多岐複雑に絡み合って相互扶助しているのが社会です。

そして他人に恩恵を供給する場合もあれば、他人から恩恵を授与する場合もある、常に流動変化している機構です。
この中の一片を捉えて、自分が恩恵を供給する側にあると思い上がることも、逆に、一方的に社会のお荷物であると卑下する必要も断じてないことを理解しなくてはなりません。
私は、常に社会とは有機体であると主張しておりますが、その人間社会には手の部分もあれば頭の部分もあり、または髪の毛や盲腸の部分も存在しているわけであり、どれが重要であり不要であるかなどを考えること自体が不毛であります。
個々の細胞は一つひとつ見れば、無規則・無秩序に見えますが、実は無意識かつ潜在的に、そして長短時間バラバラに、他の細胞に対して規則的に貢献する役割を担っており、その集大成こそ、有機体となって姿を表すのです。
 

人間は生まれながらにして、社会的に貢献する役割を担ってきているのであり、はじめからの役立たずは存在しないのです。
したがって、奉仕=社会的貢献は、人間社会にとって当たり前の行為であると同時に、最も重要かつ不可欠の行為に他なりません。
その意味では、社会貢献や他人を顧みることを「お人よし」と決め付けひたすら党利党略・私利私欲に狂奔することを正論と履き違えてきた戦後日本の誤った価値観に大ブレーキがかかったことは、そして今回、顕在的に

「己が社会のために何ができるのか?」

「他人に何を貢献できるのか?」

「そして社会にとってどういう役割を担えるのか?」

と考える契機となったことは不幸中の幸いであり、国家再生の天命であると確信します!

 

2、奉仕は己の為の生きる存在意義
この奉仕の気持ちを思い続けることこそ、社会的動物たる己の存在意義であると確信します。
さらに重要なことは、ボランティア=奉仕とは、単純に「他人のために尽くす」といった恩恵の供給では断じてなく、実は、社会に貢献できることによる、社会の中での己の存在の確認作業すなわち、「おのれ探し」の重要な要素であることである。
社会から置いて行かれることに対する恐怖、社会との結びつきが希薄化していることから来る孤独感、そして社会から「見捨てられた」との諦観による自殺などは、すべて戦後誤った「私利至上主義」の犠牲者であり、これを10年30万人以上も放置殺戮して何ら臆することも無いポツダム議会屋こそ、新価値観の下で天罰を下さねばならないのです。
社会奉仕の意識と実践により、己の社会的役割を再認識でき、己の更なる社会的貢献度合いを向上させることによる自己存在理由の拡大が、更に大きな社会成長に直結することは自明の理であります。

 

3、政治こそボランティアのはず!
そもそも、政治そのものが最大の社会貢献であるはず!
これを職業化し利権を貪ろうとする巣窟になっている現状こそ、社会全体に対する裏切り行為に他なりません!
戦後、「経済優先・国防軽視・対米従属」の吉田ドクトリンによって、打算と功利を追求することを是としてきたわが国。

特に首相小泉純一郎によってその度は極まり、「無駄は邪魔者」として唾棄されることが正当化されました。
公共は民間と同レベルで思考され、即ち、目先の短期的採算ばかりを追求し、中長期的かつ全体的レベルでの利益追求=公共奉仕は、一切合財ダメ出しされてきたのです。
郵政民営化などは郵便局のコンビニ化となり、地方過疎地まで網羅してきた「住居把握」すら不可能となってきたことは、単に切手の問題ではなく、あくまでも全国逓信網といった国防的見地がまったく欠落した暴挙であることは再三に亘って指摘したことであります。
国鉄しかり、電電公社しかり。

わが国は、金銭的打算によって国家運営され、金を生まない国防、治安、公共機関は外野からバッシングされ続け、従事隊員職員のプライドをもズタズタにしてきたのです。
すべてを金銭に置き換えて思考する商人国家に成り下がってしまった。

 

4、無駄とはなにか?
ここで言及したいことは、無駄とは一体何か?

ということです。
最も金を生み出さぬ金食い虫こそ、永田町の蛆虫であるはずですが、この輩が己を棚に上げ、金を持ってこない者を批判している図式にこそ、大きな欠点があると暴露されねばなりません。
戦争が無ければ軍隊は巨大な「無駄」であるのか?

犯罪が無ければ警察・検察・弁護士等は「無駄」なのか?
金銭の矮小化したミクロ尺度では判断できない、もっと崇高で遠大なマクロ尺度で判断することができる人材が、戦後永田町に存在してこなかったことが、わが国にとって最大の悲劇であるといっても過言ではありません。
地震・津波は天災が故にどうすることもできないのか!
前号でも主張したように、地震大国日本で史実に照らし、それ以上の防備をしさえすれば今回の罹災は激減したはずです。

要は金銭的リスクを負うことを躊躇った姑息なポツダム議会屋の手抜きによる人災であったといっても過言ではありません。
福島第一原発は何をいわんやです。

津波防止壁の問題、真の専門家を配置できないNPT核拡散防止条約の制約、見切り発車的な安直な原発依存は、悉く国民を騙した利権がらみの国賊的策動の当然の結果と断じざるを得ません。
曖昧な54基の原発は即座に停止することは当然のことであり、わが国は核問題に対する抜本的な再検討を図らねばなりません。

すなわち、NPT核拡散防止条約からの即時脱退と、核兵器保有を前提とした核保有の絶対的管理体制(施設の移動や安全技術向上など)ができるかが要求されているのです。
世界からの核兵器全廃と主張するのであれば、原発をも視野にいれた核開発の全廃を主張しない限り御伽噺になってしまうことは明々白々です。

ならば、核を超える新兵器・エネルギーの開発なくして、考えることは不可能であります。
真の民族主義政権では、強力国家の社会奉仕(衣食住の完備、国防治安国家確立)の下で、同胞一億が互いに扶助し合う奉仕国家が建設されるのです。
いまこそ、人生には無駄は絶対にありえないし、無駄な人材はあり得ないのです。
要は適材適所を配置する能力を持たぬ、無能の人物を政治指導者に頂いていることに、すべての悲劇があるのです。
偉大な伝統歴史文化を頂いた、武士(もののふ)国家日本こそ、民族共同体の第一人者であり、いまこそ原点に立ち返った国家改造断行の時が到来しているのです!
 

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