超国家主義『民族の意志』同盟
あたりまえが出来ない戦後日本
平成28年3月1日
同盟は過激な言動で評判だと言われています。
問題に対して先送りと曖昧を「円滑」と考えている現在の社会。
面と向かってその場で叱る事ができず、周囲を見渡し第三者に是非の判断を委ねてしまう臆病な社会は、判断・実行・責任は己自身にあるべきとして本音本気で言動する私たちを、「毛劇」と映ることは百も承知しています。
ゆえに、現在社会からのこのようなレッテルは私にとっては想定内であり、一つの勲章と感じております。
何故なら、私は特別なことや奇想天外な主張をして世間を驚かせるつもりはなく、至極当然のことを主張しているからです。
つまり基本的動作を徹底する社会です。
即ち、「誰もが出来て当然のことを、みんなができるようにしよう」ということです。
その最たるものの一つは挨拶励行です。
「おはようございます」
「さようなら」
は誰もが朝晩励行して当たり前の動作です。
まさに人間関係構築の一丁目一番地です。これには思想信条も出自も貴賎、人種、男女老若、地域場所の別など一切関係ありません。
このような基本動作に色々理屈をつけて実施しないでいて、「人間関係が上手くいかない」など嘆くのは本末転倒と言わねばなりません。
どのような時代、環境、国であっても「他人の協力なしにひとりでは生きていけない」ならば「己を愛すると同時に他人を愛する」
そして愛の前提である「己自身を自覚し、その延長線上に他人を理解できる」
その為に「己自身で見て、考え、判断し、行動する。
そしてその責任をとる」といった自主自立する主体性を育める社会を作っていかねばなりません。
国家自主独立の前提には、それを構成する国民の自覚、主体性がなによりも不可欠であることに他なりません。
しかるに、戦後わが国では、この当たり前の主体性、自主独立国家建設にとって大きな障害がわが国を覆っています。
私はこの暗雲を取り除こうとしているに過ぎないのです。
この暗雲が「戦後デモクラシー」であり、戦後わが国では、自分の考えや主体性を発揮しようとすると、必ずこれに「平和、自由、民主主義、人権」という一種の検閲がかかるのです。
何を言うにも行動するにもこのフィルターを通して初めて認められるのであり、これを通過できないものは、「社会的クズ」「反社会的」の異物としてありとあらゆる「魔女狩り」によって抹殺されるてしまうのです。
「自由」と言いながらも戦後価値観に適合した自由だけが認められるのであり、戦後価値観を是正否定する自由は、公には存在が許されない社会であるのです。
さらに驚愕すべきことは、第一に、この「自由」「民主主義」「平和」云々とされる標語が大手を振って闊歩するにも拘らずその定義が非常に曖昧となっていることです。
故に同床異夢的内容であるこの不明確な「標語」を、結局は誰もが信じていないということです。
更に第二に、更に重要なことですが、この皆「信じているはず」の「自由・民主主義・平和」に対し、自分自身で作ってきた自覚が無いというおぞましい事実があります。
大東亜敗戦によって、勝者から与えられた命令と履き違え、これに無条件に従うことが敗者の義務と言わんばかりの臆病者・卑怯者・無責任者の姿が横たわっているのです。
これら「自由・民主主義・平和」を口に出す際に見られる現象こそ、「自由・民主主義・平和でなければならない!」的な体裁感が付きまとうことからも容易に理解できます。
例えば、己の自由は声高に叫ぶが、他人の自由には無頓着な傾向が強くなっているのは、「自由」の本質をまったく理解しようとしていない証左です。
自分自身に火の粉が降りかからない安全の為なら、他人の阿鼻叫喚には頬被りするのが果たして「平和」と言えるのでしょうか?
「戦争反対!」「憲法を守れ!」
と主張する自由は良しとしても、さて、その先にある「平和」を維持させることに対する思考が見られないと言わざるを得ません。
「戦争反対」を叫ぶ側には、なにやら「一国平和主義」の独善しか見受けられず、それに異議を唱えるのであれば、現に戦争しているアメリカ、ロシアや軍拡に狂奔する支那、北鮮に対し、強力に抗議の気勢を上げるのが筋でありましょう。
即ち、そこには現状をとらえる観点の相違があるのです。
現状を弾が飛んでこないが故に「平和」と認識する論者は、将来世界変化の不安を抱きながらも目を瞑りこの現状維持の死守にこそ平和の姿を見出だしたいと思われる立場があります。
他方、私含め現状をとても平和に値しない不安定不条理状態と認識し、だからこそ真の平和のために立ち上がろうとしている立場があるということです。
戦争の目的とは、相手を屈服させ支配することにあるのであり、戦後わが国の置かれた立場は、正に戦勝国によっていまだに支配され続けている占領状態にあると考えているのです。
自分で祖国を護る力、意欲、法律を根こそぎ改竄去勢され、憲法、司法、経済、政治そして文化に至るまで自主、独立精神を衰退させられてきたわけです。まさに憂国であるのです。
平和を構築しこれを維持することを望むのであれば、自分自身は一体何を貢献しているのか?
しようとしているのか?
時には己の身命を犠牲にしてまで守らねばならない真の平和を考えているのか?
を探求せねばなりません。
わが同盟は、近代世界の紛争を惹き起こした張本人こそ、アジア、アフリカを侵略三昧してきた欧米白人帝国主義であると看破し、この延長線上にある現在の世界秩序に真の平和を見出せないとするものです。
「有色人種の犠牲の上にある白人のための近代平和」
であり
「日独の犠牲の上にある戦後平和」
の不条理を一刻も早く粉砕し、有色白人共存共栄の新たな世界新秩序を建設することこそが、真の平和と断じるものです。
この平和・自由の獲得の為には、心ならずも「力の原理」による不条理打倒を果たさねばならぬのが、古今東西の歴史の摂理であることを明確に理解せねばなりません。