超国家主義『民族の意志』同盟
去勢された感情を取り戻せ
平成26年3月1日
1・騙される側の無責任
佐村河内守のゴーストライター事件においては、全聾を武器に善良な他人に付け込み金儲けしてきた佐村河内と新垣の行為は断じて許せるものではありません。
これに輪をかけ、したり顔で嘘を世間にばら撒いてきたマスコミのいつもながらの無責任には更に強い憤りを感じ得ません。
今回新垣によってことの正体が暴露されるや否や、今まで「現代のベートーベン」などと褒めちぎってきたマスコミは一転して佐村河内を詐欺師として断罪に終始し、幼稚な嘘さえ見破れなかった自身の責任を棚に上げ頬かむりする始末。
煽るだけ煽っておいて形勢不利となるや否や責任転嫁する醜態は、まさに戦後一貫して外国勢力の傀儡として国民を騙し続けてきた売国マスコミの本領発揮です。
さて、佐村河内や売国マスコミへの糾弾は当然ですが、ここでより指摘しておきたいのは、この事件は戦後デモクラシーの「根拠無き常識」と「被害者妄想」を物の見事に露呈したものであるということです。
そこで考えてもらいたいのは、佐村河内の名前でCDが跳ぶように売れ、コンサートは即完売であったがようですが、その理由は一体何かということです。
全聾というハンディを負った者が作曲したこと、交響曲第一番HIROSHIMAが「広島原爆投下の二十分間を思って作曲した」こと、そして佐村河内が東北被災地に訪問し罹災者に捧げた曲であるという、嘘=演出が、感動を聴衆に惹起させたのであれば、それはそれで大成功と言わねばなりません。
聴衆側に、嘘を見抜ける能力がなくまんまと騙され、その結果感動を享受できたのであれば、その者にとっては十分満足に値すべきことでありましょう。
その嘘がばれたからといって、自分の感動に疑問を持つ者がいたとすれば、その者の感情が自身ではなく周囲他人によって操作されていることに他ならないのです。
確かに、広島市など利用された自治体や市民は嘘が判明したゆえ、馬鹿馬鹿しくなって佐村河内への感謝を取りやめたことは当然ですが。
特にわが国ではまだまだ普及人口の少ないクラシックにおいて、いったいどれほどの方々が理解してCDを聴きコンサート会場で感激したのでしょうか。
佐村河内自身が全聾を売りにしてきたこと、また佐村河内が義手の少女ヴァイオリニストに贈った曲を観客の前で義手をはめてから彼女に演奏するよう強要した一件からも、現代の偽善社会においては、身体的不具は聴衆の同情を集め金集めにはもってこいの要件であったわけです。
2・感情さえ去勢された戦後デモクラシー
繰り返しますが、これに付け込まれた購買者や聴衆の側にも責任がないとは言わせません。
大してクラシックや芸術に理解をしてこなかった者が、曲の偽解説書に乗ぜられ、更にはマスコミによってでっちあげられた評判によって、聴く前から既に「素晴らしい」と感激する心構えが作られてきたわけです。
でも、それはそれで素人には十分過ぎる感激を味わったことで満足すべきものでありましょう。
曲の解説や背景が嘘だったからといって、騙されたことを嘆き悲しむ必要はない筈ですが、実際には自分が味わった感激も嘘になり、自分の感情さえ他人によって嘘にもなりえるという事態、即ち、自身の思考や感情に対する自己責任を放棄する摩訶不思議が現在のデモクラシーに内在していることを痛切に理解せねばなりません。
自己責任を忌避しがちな現在社会の傾向は、その行動結果だけでなく、その行動の基軸である自身の喜怒哀楽の感情すら責任転嫁することは、まさに異常であるといっても過言ではありません。
残念ながら、己の感情を発露したり抑制することさえ他人の顔色を窺うような風潮が横行しています。何が美しく何が醜いのか!
何が良くで何が間違っているのか!
更には「怒り方がわからない」に代表される自分の喜怒哀楽すらすなおに沸き起こらない摩訶不思議は、まさに弱体化政策によって感情さえもが去勢された戦後価値観の典型と言わねばなりません。
3・自己責任で感情を発露せよ!
平和・人権に代表される戦後デモクラシー社会自体、既に「騙し騙され」を前提とした欺瞞と偽善の坩堝である事実を改めて看破しなければなりません。
勿論、その者の感情は周囲や環境によって大きく影響を受けることは必須であり、これからは逃れられないのは当然です。
そして人間社会とは生身の人間が日々動揺変化する個々人の感情の混在や衝突する阿修羅に他なりません。
そこには誰も知らない真実もあれば、あらゆる種類の嘘偽りや曖昧模糊が漂流し刻一刻殺到してくるのです。
その中で、人は生き抜くために自分に都合よく物事を正当化しこれを喧伝するのであり、他人は他人で自分に都合よくこれを取捨選択し解釈するものであります。
各々の感情に良し悪しなどはなく、奇麗事で糊塗された画一的理論や理屈などは激情する感情によって鎧袖一触、凌駕される条理を断じて忘れてはならないのです。
故に、この阿修羅を生き抜く為に強烈なまでの感性を磨き、決然判断し、不退転実行する意志と責任感が不可欠となるのです。
その責任社会を構築することが、実は強力な祖国再建に直結することを忘れてはならないのです。
売国マスコミのデマ、周囲の評判という嘘を一蹴し、あらゆる出来事に対し直接見て聞く労苦を厭うな!
己の感情を強烈に信じ抜き、瞬時判断を下しすべての結果責任喜んで負う勇気と覇気を持て!
すなわち、「感動せよ!決して嘆くな!」の姿勢こそ、自身を切り開き、現在の閉塞感を打開する要諦であると確信します。
感情さえも去勢された戦後デモクラシーを粉砕する為に、いまこそ勇気をもって強烈な個人・国家の感情を発露しようではありませんか!