超国家主義『民族の意志』同盟
生きる意義
1・前へ! 前へ! の12年
平成七年の結党からまる12年ですね。特に同盟運動で意識してきたことを。
もっとも人類歴史数千年でさえも、教科書一冊で語られ圧倒的多数の事例事項は霧散するものです。
しかしながらそれぞれの時代では凄まじい社会的葛藤、騒動、ドラマが間断なく繰り返され、更には個々人のレベルに目を向けるなら天文学的数値の大スペクタクル史が歴史の伏流として人知れず疾駆怒涛しているのです。
同盟運動は政治運動であり維新変革運動であります。
それには当然に権力奪取を目指し血生臭い権力闘争を展開する覚悟がなくてはなりませんし同盟員にも当然にも要求される覚悟ですね。
その根底には、その原動力となって社会を疾駆し大衆を領導する実に清々しい若者のひたむきな生き様を構築していくことが不可欠であります。
われらが目指す超国家主義世界観闘争とは大ロマンに向かって生死を厭わずに驀進し、現実の修羅場にも動じない実に清冽な躍動する情熱そのものであります!
故に惰性と慣性を激しく唾棄し、失敗を怖れぬ前進する若い組織体であります。
12年といっても人員は常に新陳代謝を繰り返し、その時々において最善の精鋭が参加し最善の活動を展開してきたわけであります。
闘い半ばで戦線を離脱せざるを得なくなった同志も多数います。
彼らに対してはその当時の活躍と礎になったことに厚く感謝し、その上でさらに新たに超国家主義運動の精鋭の戦線参戦を促進することこそが運動の運動たる飛躍と確信しております。
発展飛躍とはただ単に数を増やすことだけを意味するものではなく、前進ときには後退を繰り返しただひたすら「前へ! 前へ!」大ロマンの実現に向けた信念の闘争する姿勢そのものを意味するものであります。
その意味でも、政治は不退転の決意と信仰にも近い信念でもって他人により大きい影響力を与え続ける人間行動であり、それが故に指導者育成と大衆心理戦の断行こそ、われらが最大最重要視せねばならぬ存在意義であると思います。
2・自主性とは
同盟および同盟の掲げるロマンに対する魅力を感じるもの自体、既に自己の意志が働いているわけであり、この者に対して自主を重んじるは当然です!
同盟の名称にあるように、入隊者には必ず、「諸君自身の意志」を持って同盟に入隊すべし。
であり、また「同盟から何かを求めるのではなく、同盟運動に対し自分が何をできるか」を模索し実行すべしと常に言及しています。
故に、命令を受けるだけの待ち人間、失敗することを恐れ無為無策を決め込む半ボケ人間、好き嫌いを運動の指針にするサークル人間などは百害あって一理なしであります。
プライベートの煩悩に喘いでいる者などはとても他人様や天下国家の大事業を担うことはできませんし、同志としてはまだまだの感がありますね。
しかしながら、人間とは概してこのような堕落に陥りやすい生き物であるとの前提で対処することが必要であります。
はじめから自主も人格も形成された人間がゴロゴロいればとうに世界は変わっているのであり、誰でもが持つ人間堕落の不条理を「打破したい!」「変えて生きたい!」と意識する者に「自主」「自覚」「自信」を指導し、「社会変革の旗手」にすることこそ、大きな意義があると確信するものであります。
なれば同盟の役割とは、個々に対して自己確立を促す場を提供すること、特に、自主の重要な要因である「長所をのばす!」→「自信」を与えるものでなければなりません。
私自身も含め、まさに人間教育こそ政治運動の本源であると確信しております。さまざまな立場の大小の指導者が強烈な意識と使命感をもって彷徨する大衆を強力に指導することこそ、最大最高の政治形態であることは間違いないことであります。
人間始め生き物の存在自体が神秘的であることを理解せねばなりません。
3・己の存在=生死を超えて
人間の物体を意味するのではなく生死を指すわけです。
己自身で認識しようがしまいが、生を受けたということ自体、神秘的使命に他ならず、その神秘の下では誰ひとりとして無意味な存在であり得ないのである!
そこで本来思考すべきは、いったい己はこの世においてどんな存在意義があるのか? どのような使命を担っているのか?
そして実際何をすべきなのか?
ということではないか!それも、数十年たらずの死までの短期間の中で、しっかりと己を見据え行動していかねばなりません。
また人間とは個人では生きていくことは断じてあり得ません。
社会と接することによって互いに影響を及ぼしあって両立するものであります。
これを強烈に認識し己の人生・使命を実に有意義に遂行したければ、とても私利私欲や党利党略に狂奔する低次元に陥ることはできません!
個人的至福は社会還元から大きく享受すべきものであると認識するならば、いかに社会全体に対して大きい影響と貢献をすることができるかを日夜模索し邁進するは当然の理であります。
逆に、己の存する社会国家に対し、悪い影響を与えこれを私物化寄生する党利党略の背信者どもは、断じて許してはならないとの結論に達するは当然です!
現今の防衛省の大疑獄、国民の食生活に多大な被害をもたらす偽表示食品、はたまた国家をアメリカに売り渡して私腹を肥やしている植民地代官=永田町政治屋ども、国民度外視した利益亡者=亡国財界、社会を私物化する亡国マスコミどもは、このような見地から、使命を忘れた拝金亡者として血祭りにあげなくてはなりません!
また、個々人に対する使命の軽重に大きな差があるは至極当然であります。
全員が同じ指名、同じ行動をするはかえって歪な社会構造に陥ってしまうのであり、力量・環境・時代によってそれぞれに善悪・軽重・対立等々の使命が天賦されているは言を待たぬ事実です。
こうは言っても、己の存在意義などというものは強制強要されるべき代物でもないし、他人から指示命令された自覚無き「意義」は逆に偽善者に陥り悪行に手を染める背信行為に繋がりかねません。
すなわち、自己存在意義を認識すること自体、あるいは認識しようともだえ苦しむこと自体が天から享受された使命であるといっても過言ではありません!
よく、他人を自己認識できないものは、それなりの使命しか与えられていないのであり、そこには当然に個々人に差があってしかるべきです。
同盟の門を叩いたものは、無意識の中にも己の存在意義を確認したいと覚醒した者であり、それ自体が混濁社会に漂うクラゲ人間より遥かに屹立した使命を与えられているわけであります!
そして、より大きな社会的影響を行使することによって「自己の確立―社会国家の屹立―世界繁栄」への実現という大ロマンの洗礼を受けた者は、生死を超越したロマンに生き、そして死を喜ぶ存在でなければなりません。
激動と混濁そして背信と嫉妬、コンプレックスに嘆く諸君!
この汚泥こそが、人間生きられる唯一の場所であることを強烈に自覚すること、それが己のすばらしい爽快な人生をまっとう出来る唯一無二の生き方であると確信します!
まさに、死に場所を求めるために、人間は生きていることを強烈に自覚すべきであります。