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爽快なる青年運動とは

第二章 爽快なる青年運動とは
一歩も踏み出せぬ臆病な大人の常識
 運動とは有機体、すなわち生物そのものである。したがってひとたび生まれたら、死滅する運命は免れない。特に維新変革という凄まじいエネルギーを必要とする運動は、障害物をものともしない不撓不屈の精神と強靭な肉体が要求される。さらに、その心には、情熱に火を灯し続ける屹立した大ロマンがなければならない。
 実現が容易な夢や現状維持を目的とした趣味的サークル活動ならいざ知らず、国家の政治を担う公党であれば、常に変化を恐れず、自らが掲げるロマンの実現に向かって突き進むべきである。
 しかし、既存の政党は、問題が起こってからその対処方法を考え、受けのいい大衆迎合の公約ばかりを掲げている。さらには政党自体が、個人の好き嫌いや意見の食い違いで、分裂併合を繰り返すなど、ロマンとは程遠い保身を目的とした利権集団、弱いものが助け合う相互互助会のような醜態をさらけ出している。そのような自己保身しか考えない政治屋どもが、いくら口角泡を飛ばして議論しても、問題は改善される訳がなく、せいぜい目先の事象に対処する事後処理を行うことが関の山である。問題が起きるたびに、事後処理を繰り返してきた結果、専門家でないと理解できない複雑な老後年金や医療保険など、つぎはぎだらけの制度が作られたのは、その典型的な例である。
 毎年5月3日になると、思い出したように繰り返される憲法改正問題をはじめ、防衛問題、核問題などの重要課題も、「近代憲法あっての文明国家」「日米安保、国連あってのわが国の防衛」「被爆国としての核問題」といったように、戦後の日本社会に囚われているが故に、一歩も前に進めないのである。
 大東亜戦争終結以前を全面的に否定する戦後日本は、あたかも昭和二十年8月15日が建国記念日であるかのように規定して、わが国の2680年にわたる悠久の歴史の連続性を断絶している。ここに法規上は独立国であるが、実態は米国領とされている日本の醜態がある。
 対日弱体化政策に洗脳され、奴隷根性が染みついていることすら認識できない者たちが、「植民地デモクラシー」(アメリカの自由主義・民主主義・平和主義)を信奉する社会情勢の中で、一体どうしてわが民族の栄光あるロマンを見出すことができるだろうか? 戦前を悪と決めつけて、自分たちの正当性を主張することなく、外国の言い分に屈服し続け、罪なきところに罪を作り、贖罪教育を垂れ流し続けるような、自立できない大人たちの「常識」を若者に押し付ける社会に、どうして自主性・自立性・自発性を持った青年の健全なる育成を期待することができるだろうか?
 自らの信念に基づいて、必要とあれば剣を持って立ち上がるという気概も覚悟もない、最初から腰が砕けた卑怯者の唱える「暴力反対、紛争反対、戦争反対」の空念仏こそ、陰湿でずる賢い暴力や紛争、戦争を引き起こしてきたことを知るべきである。信念も気概も覚悟もないから、暴力や紛争、戦争の先にある真の平和の価値を肌に実感して理解することができないのである。

青年とはロマン抱く勇者
 政治とは、国家民族の将来を担う、若者のための社会づくりに他ならない。そういった理念を持った政治を継承することで、次の若者、さらに次の若者が社会や国家を成長させていくのである。
 常にはるか先を見据え、希望に輝く若者の眼差しこそが、今の社会や国家を下支えしている者たちの励みとなり、無限の活力となるのである。夢も持てず、いつも伏し目勝ちで足元しか見ないくらい社会だからこそ、いらぬ仲たがいや不毛な争い事が多発するのである。
 ロマンは容易に実現できるものではない。だからこそ、そこに心地いい緊張感が生まれ、待ち受ける艱難辛苦を石に齧りついてでも克服するという、気迫や不撓不屈の精神が育まれるのである。この張り裂けるような緊迫感、湧き上がる感動、みなぎる底力を実感しながら、勇往邁進する過程の中で、かつて味わったことがない表現できぬほどの爽快感を味わうことができる。答えの見えない難題に対し、失敗を恐れることなく遮二無二に突き進む、敢闘精神と勇断による行動こそ、時代に左右されることのない青年の特権なのである。その特権を自覚し、行使することなく、心身ともに朽ち果てるまで日々を無為に過ごすことは、天に唾する愚行に他ならなない。
 青年の青年たる資格とは、単に実年齢を指すのではなく、ロマンを抱き続けながら、はるか先を見据える勇者を指すのである。また青年運動とは、だれもが臆して踏み出すことができぬ道に、自らの身命を賭して雄々しく一歩を踏み出す、世間一般からすれば常識はずれな運動、規制価値観の破壊運動なのである。

我が国にこそ人類を救う使命あり
 超国家主義運動とは、第二次世界大戦後の戦勝国の価値観を打破するだけでなく、この価値観の土壌である「近代・西洋およびキリスト教」文明を超克する運動である。
 現在、だれも異論を差し挟むことを許さない「ヒューマニズム」「進化論」「科学万能主義」「地動説」に代表される「常識」にメスを入れ、独善的思想と確信的意図によって世界を支配してきた、白人優越世界秩序を根本から見直す時代になっているのである。
 環境破壊、CO2問題、核問題、さらには国境線(領土)問題、南北(貧富の格差)問題などは、近代白人文明の「常識」によって引き起こされた、人間の驕りの産物であり、まさに自業自得の所業なのである。
 人間文明のためなら、自然破壊もやむを得ないとするドグマ、核やサリンなど自然界には存在しないフランケンシュタイン(人造モンスター)などによって、人間が間借りさせてもらっている母屋である地球を、破壊の危機にさらしているのである。
 今なお続く領土問題、民族問題、宗教問題、食糧問題、さらには文化問題の大多数は、白人による南アメリカ、アフリカ大陸、アジア地域への侵略によって引き起こされた傷跡である。将来を担う青年たちたちのために、これらを解決する方法は、自然を崇め、人と自然が共存する文明(アニミズム)に回帰し、科学万能主義の白人帝国主義を南アメリカ、アフリカ、アジアから駆逐することで、お互いを尊重しあう白人・非白人の共存共栄の世界を建設すること以外にない。
 まず取り除かなければならない障害は、戦後世界を支配し続けている、かつての戦勝国の支配体制である。次に白人帝国主義者によって植民地状態に置かれている南アメリカ・アフリカ大陸、アジア地域の開放である。これこそが大東亜戦争において、わが国が提唱し、多くの若者たちが尊い命をささげた「アジアの開放」、「民族の自立」に他ならない。いまこそ大東亜戦争の精神に再帰し、それを継承していくべき時なのである。人類の未来のために、わが日本の覚醒は絶対的必要不可欠な要素なのである。
 日本が真の自主独立国家となれば、アジア、アフリカにおいても必ず、白人帝国主義者への民族的抵抗が起こり、植民地状態から解放され、共存共栄の世界新秩序が構築されるはずである。その時、白人帝国主義者による「近代・西洋およびキリスト教」文明は終焉を迎え、新たな文明の幕開けとなるのである。次世代人類が生き残れるかどうかは、ひとえにわが祖国の覚醒と再興にかかっているのである。われわれの運動は、その重責を果たすためにあるのである。
 

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