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街頭闘争こそ政治の原点

1・世界観政党とは
政党の意義について同盟二十一箇条綱領でも議会制政党政治の打倒を強く主張されておりますが、まずもって指摘しておかねばならないことは、私の言う政治とは、既成価値観維持の為の統治機関=行政を指すものではなく、あくまでも世界観の実現。

即ち理想国家像の実現に向けた運動を指すものです。

この為には全国民の前に明確な方向性を指し示し、且つ大ロマンを高く掲げるものでなければなりません。

更にこれを具現化させるための闘争組織としての政党を位置づけねばなりません。

自らの世界観闘争にとって味方を拡大し敵を粉砕する運動体こそ世界観政党の意義に他なりません。

行政・統治機構はこの意味で、世界観闘争の為の機械化システムであります。

まさに政治家と官僚の役割を明確化せねばならない理由であります。
そして何より重要なことは、二つの世界観が並立し得ないことを強烈に認識しなくてはなりません。

即ち「やるか、やられるか」であり、妥協なき熾烈な闘争が繰り広げられねばならないのです。

故に、二大政党制なる馴れ合いや無責任的たらい回しは政治遊戯であり、ロマン実現の為に死に物狂いの権力闘争を展開する立場からはナンセンス以外の何ものでもないのです。ところが戦後わが国には、真の政治が存在してきたのか?

と疑わざるを得ません。本来持つべき世界観もロマンも、実は敗戦国史観の呪縛の中で去勢されており、示すべき方向性もない羅針盤欠如の漂流船の如くの哀れな姿しか見えてこないのです。

永田町の住人達は左右、保守革新問わず、現今民主主義を金科玉条の如く信奉し、闘うべき敵をも見つけられずに徘徊しているのです。

上から蓋を閉められたビンの中で、いくら「改革」「維新」を叫ぼうが、畢竟、現状価値観には何の影響も及ぼすことはないのです。

自民党、社会党、民主党など政党名は代われど、いくら政権交代をしたと叫ぼうが、所詮どれもこれも戦後デモクラシーに胡坐をかく「同じ穴の狢」に過ぎないことは、三年前の民主党政権樹立直後に私が指摘した通りであります。

「対米従属・国防軽視・経済偏重」の吉田ドクトリンを踏襲し、軍事・経済・社会的に祖国の生命を他国に依存するが如き売国的価値観は、実は永田町に巣くうすべての既存政党の共通指針であることを断じて忘れてはなりません!

 

今後政権がいくら交代しても中身は同じということです。
戦後わが国を貶めているデモクラシーを否定し、再軍備核武装を主張し、更には相応しい領土を要求するような「戦後のタブー」に挑戦する勇気ある政党も政治家も存在してこなかったことでも容易に判明できるでしょう。
したがって、現在永田町に巣くう政党と称する集団は単なる選挙互助会に過ぎません。

そもそも選挙で当選する目的で寄せ集めた集団に過ぎず、現にその行動範囲のほとんどが議院内に限定されています。

そもそも落選すれば「ただの人」と揶揄されるように、議員バッジに依存する「議院内ヒッキー」に一体どのような期待ができるのでありましょうか!

大阪維新の会に3000人もの候補予定希望者が集まり、殆どが国政参加に関心ありというが、まさに笑止です。

機関紙89号で示した如く、国政をもボランティアでやる意気込みがあるのか?

約束を破れば潔く自らの命を絶つ勇気があるのか?

という本気度が今ほど政治家に問われている時はありません!

本気で国政を担う気概があれば、是非、全財産は基より身命を国家に預けてもらうは当然でしょう!

 

2・反議会主義を掲げて議会に進出する
世界観政党と議会との位置づけとは、既存価値観に毒されている方々には、「選挙・議会・憲法」に立脚する民主主義が絶対的存在として認識されていますがこれもおかしい。

選挙・議会・憲法がない国家・政治は果たして圧政であったか?

封建的で苛斂誅求が行われていたか?

何が何でも

「近代以降がすばらしい。それ以前は封建主義であり野蛮人の下劣文化しかない」

という歪曲された歴史観が堂々と今尚まかり通っているのです。

そもそも「憲法・議会」なんぞは、維新後間もない明治国家が欧米列強に認められてもらう為に模倣して用意した見せ掛けの機構であったことは周知の事実です。

圧倒的武力でアジア・アフリカを侵略してきた白人列強から祖国の独立を守護する為の苦肉の策であったことは十分理解できます。

しかしながら、この避難的手段であった事実を忘却し、あたかも江戸時代以前を封印し捨象してきた「近代」を疑問視しなければわが国の将来は絶対に見えてきません。

白人の手によって文明がもたらされたような白人優越歴史観や近代国家システム自体が果たしてその国々に適合してきたのか、改めて検証する必要があるのです。

即ち、議会制度の否定を念頭に置いた闘争をも実施せねばなりません。

 

つまり反議会主義を標榜して議会に乗り込むのです。

この目的は国家権力=統治機関の掌握に他なりません。

先述した如く官僚機構は世界観闘争のマシンの一つであり闘争にとって不具合部分は容赦なく切り捨てねばなりません。

明確な世界観と政治的リーダーシップがあってこそ世界観闘争が可能となるのです。

民主党政権はこの最重要な背骨がまったく欠けていたために、官僚に指図するどころか逆に素人政策ごっこの腕白小僧どもは抜け目ない官僚によって易々と篭絡してしまったのです。

野田佳弘首相も、財務官僚からの消費税アップ洗脳に乗ぜられて右往左往している始末です。

 

3・暴力が維新変革のシンボルとなる
また大衆を領導する現代政治において、なによりも重要なものは第一にダイナミックなプロパガンダ。

第二に街頭を制圧する青年部隊(突撃隊)であります。

特に後者は、政治を身近で顕在化する手段として、規律あるパレード行進、敵との街頭闘争などを繰り返すものです。

「強い、大きい、行動的、若さ」を兼ね備えた実力部隊の行動こそ、常に大衆の前面に姿を現し大衆に強烈な印象を与えることは間違いありません。

この繰り返されるデモストレーションこそ、脳裏に刻印される集団芸術であり将来を制する運動のダイナミックなシンボルとなるのです。
人類は本源的に力の前に服従してきた歴史があります。

そして己を圧倒する巨大力行に対しては至上の崇拝を抱く喜びを感じてきたのです。
ところが戦後わが国は、対日奴隷化政策によって古来伝承される神秘性も規律ある強力美も喪失してきたのです。

結果、小ざかしい一国ボケ平和の無秩序な醜態に染り、夢もロマンもなく閉塞感に打ちひしがれ朽ち果てようとしているのです。

戦争・暴力を何の根拠なく否定する奴隷状態こそ楽園とするおぞましい既成価値観には、問答無用の鉄槌を降り下ろさねばならないのです。

 

それは暴力を行使するという意味であり、暴力は常に大衆の心の奥に潜んでいる魅惑なのです。

そして厳格な規律の下で行使するダイナミックな暴力こそ実に爽快であり、逆に無秩序な小競り合いの小暴力こそ嫌悪されることを忘れてはなりません。

敵には容赦なき暴力は、味方にとってはこの上ない信用を与えるものです。

必要ならば喜んで暴力に訴える勇気と行動こそ、来るべき偉大日本には不可欠であると確信します。

まさに来るべき戦場は街頭であり、選挙は基より日常の繰り返される全国の街頭での闘争における勝利こそ、一気呵成に永田町に雪崩れ込みあらゆる既成価値観を覆滅できる土台となるのです。

世界観政党の活躍の場は、街頭から首相官邸まで幅広く存在するのであり、既成価値観を破壊する暴力こそが、輝かしいシンボルとなるのです。
(平成24年7月)

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