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維新は非合法も辞さぬ

世界観実現、即ち権力奪取の為には暴力も辞さない
暴力を含めたすべての手段を駆使しても奪取すべきものが本源権力であるのです。

暴力を非合法と呼ぶのであれば、非合法を否定しない合法闘争を展開し、ひとたび非合法を行使し権力を奪取した暁には、その非合法行為を合法化すれば済むことなのです。

 

そもそも権力闘争とは「生きるか死ぬか」の争いに他ならず、その為にはありとあらゆる手段を行使することは至極当然です。
ところが、法秩序の整備=表面的非暴力が「文明先進国」のバロメーターと嘯く現今、直接的暴力を排除した権力争奪ゲームが展開されているのです。
そこでは、いかに投票箱に自分や所属政党の名前を書かせ投函させるかが重要な行為であり、この為には卑劣な手練手管が講じられるのです。
まったく身も知らぬ有権者を目の前にし、如何に己が優秀な候補者であるかを鼓舞し、今迄自分がいかにすごい活動を行ってきたかを臆面もなく喧伝することが求められているのです。
他方、対立候補や政党の不条理や失敗事例を出来る限り列挙し貶める作業を弄するのです。
しかしそうかといっても、互いに「身命を取る」本気がないばかりか、よくよく眺めれば実は名前の違い以外に何ら根本的相違点が見出せないほど似通っていることが多いのです。
 現に、離合集散する政党変遷を見れば、政党名がいかに変化しようが、所属するポツダム議会屋の顔ぶれにほとんど変化がないことが容易にわかるでしょう。
元来権力とは、「敵対者の身命を奪う」ことができる力を持つことであり、権力維持とは対立者の駆逐一掃してこそ可能であることは古今東西の歴史を垣間見れば容易に判明できることです。

従って、権力獲得はまさに命がけであり、その為にはどのような手段工作をも辞さぬ執念が要求されるのです。

 

現体制による反体制勢力の封じ込めが成功している限り、即ち現体制の暴力装置が反体制勢力を封殺している場合には、体制秩序の維持が「安定」と呼ばれ、反体制勢力の暴力が現体制暴力を脅かす場合は、体制秩序の「不安定」が始まり、反体制暴力が体制暴力装置を圧倒した場合に秩序「破壊」となるのです。

故に、維新変革とは、この現秩序破壊を意味しなければなりません。

現体制秩序の破壊とは価値観の破壊、法体系の破壊であり畢竟、暴力的破壊を伴う蓋然性があるは当然です。

 

現在「維新」が多用されている理由とは、体制内反対勢力である戦後左翼に対する幻滅。

特に社会党村山政権樹立による保守の補完物に過ぎなかった左翼革新陣営への幻滅は、その後右傾化を加速化してきたが、これとても結局は、戦後体制内保守の助長に過ぎないのです。
あくまでも民族主義者にとって戦後体制の打倒粉砕を意味しない維新などは考えられないのであり、このためには大東亜戦争の意義である「自存自衛」「アジアの解放」を貫徹させねばならないのです。
即ち前者には、戦後デモクラシー・自由主義・平和主義に代表される戦後価値観の打倒、自主国防体制=日米安保・国連(対日軍事支配体制)の粉砕、後者には、中華思想粉砕、白人覇権打倒による、わが国主導の東亜秩序確立が必須要件となるのです。
まさに、真の独立主権国家を建設し強力国家を建設することは、換言すれば「戦争に勝つ国家体制」の建設に他ならないのです。
国内の権力闘争に勝利し、更にはわが国の犠牲の上に立脚した現世界秩序を覆滅する偉大な闘争に勝利するわが国の維新変革こそ、畢竟、白人覇権の一掃と世界共存共栄による人類平和の根源となることは間違いのないことです。
遠大なロマンと世界的使命に基づく維新に不可欠な暴力は、まさに正義の鉄槌であることを世界に示さねばならないのです。

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