超国家主義『民族の意志』同盟
戦争と平和について
平和とは、戦争に訴えても守るべき意志行動
1、はじめに
また今年も暑い暑い八月十五日が巡ってきた。
まずもって大東亜戦争で散華された二百五十万英霊に対し心から哀悼の意を表し、ここに未だ達成されていない「アジア解放」「自存自衛」の大東亜百年聖戦の継戦貫徹を高らかにお誓い申し上げます。
そしていまなおアジア・アフリカ侵略に狂奔する白人帝国主義者および、その走狗となりわが国の世界史的使命を忘却しわが国を堕落滅亡へと導く戦後デモクラシー信奉者どもを断固粉砕する維新改新の断行を改めて高らかに宣言するものです。
2、戦争妄想と無為無策の平和
さて今回、基本的課題である「戦争と平和」に関し角度を変えた一考をここに記したいと思います。
戦後七十四年を経過した現在、いまなお狂信的な平和祈念宗教がはびこる。
「何もせずじっとしてさえすれば安泰」とする根拠なき戦後の「迷信と風習」が横溢する。
「ヤマタノオロチに七人の娘を生贄にされ悲しんでいるだけで、八人目の娘も犠牲にしようとする」もの。わが国の神話では、この民を悲しませる諦めの風習を決然打破するためにスサノオノミコト(須佐之男命)を登場させた。この英雄こそが八頭大蛇を退治し櫛名田比売を救い結婚した。
「平和」の本来の意味も定義を探求努力せず、ひたすら「現状維持」をそれに当てはめてきた。ゆえに襲来する外敵には身を硬直するだけで手をこまねくだけ。挙句は同胞を公然と犠牲に差し出すことによって今日の「無事」に安堵しているのである。この先を思えば溜息しか出ないがため、できるだけ「足元だけを見て」「将来を見ないようにする」刹那思想が常識として成り立つ歪な社会が出来上がっているのだ。民族の死滅がカウントダウンされていることが薄々理解していてもだ!
おばけを怖がる者は、「目を開けず」「耳をふさぐ」がために妄想が独り歩きし勝手に巨大な怪物を生むのである。
「戦争」という「凶悪非道な怪物」もまったく同様。できるだけこの怪物が「目を覚まさないよう、じっとしていろ!」「少しでも下手な動きをすればガブっと食われてしまうぞ!」「怪物に見破られないように偽装しろ」。これら涙ぐましい「努力」をしながら怪物を「怒らせない」静寂と祈祷を繰り返すこと、まさにそれが現在のわが国の「平和の行為」であるのだ!
何たるナンセンス!「病気を祈祷で治す」奥地の土着民の真剣行為を馬鹿にできるはずもないではないか。
「戦争」とは所詮人間同士の思惑による所作のひとつに過ぎぬ。人間の手を離れた超現象的事象でも異次元世界から襲来した化け物でも断じてない。即ち、人間が無意識のなかにおける油断と甘えで放置した実体行為であることを理解せねばならない。この実態を直視し、その双子である「平和」とともにそれらの内容を鋭く吟味せねばならない。
3、逆説「戦争が無い世界」とは
「戦争のない世界を」「戦争反対」と叫ぶ連中は、いったいどのような世界を意図しているのであろうか?
公然とした暴力喧嘩を非難する一方、陰険ないじめには見て見ない振りする連中。
やってもいない日本の「戦争想起させる言動」に激しく非難中傷する一方、今なお止むことない海外の実際戦争に対し無関心でいる連中。
彼らに以下ご注進申し上げよう。
戦争や交戦権の基になるのが国権や統治機構。ならば独立した国家機能を放棄した場合には、当然に「国権の発動による戦争」も「交戦権」も喪失する。左翼や平和市民団体を称する輩が盛んに「戦争反対」「戦争のない世界を」と叫ぶが、これを実現するためには敵国に自国を併呑させればよいだけである。そうすることで公式の戦争機能が消滅することとなり世界から「戦争行為」と認められなくなる。敵国に無血で植民地となった「地域」で例えば六百万人の無辜の人民が虐殺されようが強制収容所にぶちこまれようが、あくまで「内政問題」で認識される。当然虐殺者は戦争で死んだ数には入らない。
植民地に戦争行為は存在せず、当然に戦争で死んだものがいないことになる。
逆説的に「世界から永久に戦争廃絶」する社会とは、世界中が一国の永久植民地になった場合に初めて実現できるであろう。そこには戦死者よりもはるかに多くの虐殺が行われるであろうことは支那のチベット・ウィグル併合、いまなお行われているチベット・ウィグル人大虐殺を見てもわかるはず。
日本のできもしない「戦争」に反対するが、チベット・ウィグル人虐殺を「内政」として見て見ない振りするエセ平和主義者どもに、「平和」を語る資格など断じてあるはずがないではないか!
あくまでも狭義な「戦争」だけを取り上げ、それで「死ぬ」者がいなくなりさえすれば、ひとまず満足なのか?この馬鹿々々しさが通用するほどの虚構平和に胡坐をかく社会に将来はない。
4、真の平和とは戦争に訴えても守護すべき行動
平和とは、自国の意志と実力で生き抜くためのロマンと手段。
戦争とは、自国の生存を脅かす外敵を排除する伝家の宝刀。
では現在わが国で、真の生き抜く意志や手段を実施展開しているのか?生きるための未来への勇気を民族に与えているのであろうか?
自国民を守る、自国民の胃袋を満たす、安心できる最低の衣食住医療を保証できているのか?
自国民を守護する最低責務を放擲してきた戦後の為政者に、すでにその資格はないと断じねばならぬ。そして最大の国防政策である食糧自給自足が、いまや穀物自給率30%台は一独立国家としてもはや存在要件を満たしていない。
挙句は今年春の種子法改正で食糧の生命線であるコメの国産放棄、そして入管法改正による事実上の移民政策で、日本民族の非民族政策が公然と行われている。
まさに欺瞞の「平和」である「現状維持」さえ否定する「非自主」「他力依存」の民族否定の策動こそ、生き抜くための真の平和に対する冒涜否定に他ならない!
悲しいかな、わが身を犠牲にして守るべき祖国を見出しているのか!
もはや「反対」する「戦争」ですら、その目的は現在の「国民の生命と財産、領土」という基本的であるが一面しかとらえていない。守護すべき重さが十分に理解できていないが故に、国内反日分子による国民乖離策動に乗ぜられることになっているのだ。本来の守護すべき目的使命を喪失している現今、再度わが国悠久二千六百七十九年の偉大な歴史・伝統・文化に自覚驚愕し、そして伝家の宝刀たる戦争に訴えても断固これを守護する一億強烈な信念行動こそ、真の平和活動であることを肝に銘じよ!